陽だまりの子

Child In The Sun

2012-01-01から1年間の記事一覧

060. アスファルト

パタパタという機械音が窓の向こうから響いてくる。ヘリコプターだろうか、明るく閃く天井。今日も眠れないまま、私は天井を見上げている。意志の力で眠るのにも、もう厭きた。眠れないのなら、そのまま起きていよう。暗い部屋、白い天井、傾いたポスターフ…

059. あの日

私には体が三つある。心の体と、頭の体と、体の体。心と頭と体がそれぞれの身体を持ち、協力しあったり、反目しあったりしながらもそれなりに折り合いをつけて共存しているのが私の心臓のあたりだろうか。心と体は古参だが、頭は新顔なのでどうしても心と体…

058. 散歩

シャーリーンという私の名前が何にちなんだものなのか、今となっては聞く相手もいないので知る由もないが、少なくとも私の両親は娘が不眠症になることを願ってこの名前をつけたのではないと信じたい。この界隈で「シャーリーン」と言えば「不眠症の女」を指…

057. 白と黒

コンロの前で鍋の中の煮物の煮える様子をじっと見詰めている。醤油と味醂の匂いと暖かな湯気で、自分の髪の先がじわじわ熱くなってくる。換気扇の音の向こうに外の木枯らしの音が聴こえてくる。明日は雪になるそうだ。雪が降れば暖かくなる。雪が降れば何か…

056. 待ち伏せ

窓の外の低く赤い月を見て、ふと朝から干したままの洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、街灯の下に一人の男が立っているのが目に入る。自動販売機の前を行ったり来たり、その中の缶コーヒーやジュースの品名はもう覚えてしまっているに違いない。目の前…

055. 自転車

幼い頃、私はイチジクの実を見つけるのがうまかった。互い互いに枝から生えたたくさんの葉のうちから私はいつも実の在り処を誰かに教えてきた。背丈があの頃の倍ほどにもなった今でも、私は自分の背丈の三倍以上もある巨木の根本から、樹上遥かな梢の実を指…

054. 堤防

ざんざん降る雨の音を聞いていると、去年の秋に時間が揺り戻ったように感じる。今日は2月11日。冬も終わり。雪が降らずに雨が降っている。雨の降る様子に心を動かされるのに、雪の降らないことに異を唱えるのに、私の心は自分の感情にまったく静かになってし…

053. ポケット

肩甲骨の間が痛い。風邪を引いて三日目。いい加減に休んだがいいと毎日自分に言い聞かせて布団に入るが、翌朝目覚めると存外に体調がいいのでツイ出勤してしまう。午後になって薬が切れてきて、ああ、自分の見込みが甘かったと気づく。だが、それも毎日のこ…

052. さざなみ

私は大事な人に物を買ってあげるのが好きだ。生来の口下手で、自分の言葉をうまく声にできないからだろう。愛情を物で示そうとする。人に話しかけることができないので、私はいつもその人のことをじっと見ている。観察している。だから、その人が何がほしい…

051. 路地

蝋梅の盛りを見逃してしまった。家から駅に向かう途中に、小さいながら枝振りのしっかりした蝋梅の木があった。家の主からその気が蝋梅であると聞いて花のときをここ半年ほど楽しみにしていたのだが、日々の雑事に忙殺されてついぞ見ずにしまった。この小さ…

050. 煙

椅子にかけた男の肩に腕を回して女は男の背中に額を預ける。男は自分の肩の上の腕を払うでもなく、自分の背中の女の額を退けることもなく、そのままにさせている。 「煙草、やめたらいいのに」 男の手には、細身のシガレットホルダーが握られている。これで…

049. 反射

マグは戸惑っていた。この町から自分ひとりが出て行くことにこんなにもたくさんの理由が必要だと思いもしなかったからだった。彼はまず水道局に言い訳をし、ガス屋と電気屋にガスと電気を止める日時を秒単位まで知らせ、引っ越し屋には本当にこれ以上は何も…

048. 放課後

「うちのお父さん煙草やめたんだ」 「そうなの。いいじゃん」 「よくないよー。だって病気してるんだよ。それで煙草やめたの。病気してなかったら今でも絶対吸ってた」 「お医者さんに言われたの?」 「そうだよ。あと、お母さんとおばあちゃんに言われてや…

047. 左利き(2)

私から何も取らないで。心も体も、何も取らないで。私を一人にしないで。私から仕事を取らないで、私から大事な人を取らないで。私には理性という右手があったけれど、この右手が最近うまく動いてくれないの。でも、左手でも最近はいろんなことができるよう…

047. 左利き(1)

夜道は怖いので、私は人通りの多いバス通りを通る。会社帰りはいつもこの道を歩いている。一日目、私は聞かない音を聞いた。規則正しいドン、という音と、ぽんぽぽんぽぽぽぽぽ、という柔らかい音。音は間延びしたり性急に次を急いだりしながらずっと続いて…

046. SOS

土砂降りの雨、聴こえるのは窓に吹きつける雨音だけ。私は一人で部屋の中にいる。服は全部脱いでしまって、身につけているものは何もない。灯を消してしまったから恥ずかしくはない。私のほかに誰もいない部屋で、恥ずかしいなど本当は感じないことなのだけ…

045. 人生ゲーム

ジョーカー、カードをやらないか。俺が変人だって、俺が狂っているって、周りは言うのさ。ジョーカー、お前は違うだろう。お前はそうは言うまい。だって、お前はジョーカーだからな。誰がつけたんだか、「ジョーカー」なんて悪趣味な呼び名。今ではお前自身…

044. ソファー

独房の中は一人でいると案外広いものだ。自分の四肢をぐっと伸ばしてもまだ壁までまだ余裕がある。私の体が小さいだけなのか……。私か?私の名前はシャーリーン。5年と少し前に人を殺してこの牢獄に入れられた。弁護士の話によると出られるのは当分先だそうだ…

043. 新世界

人のいない夜道をこつこつ踵の音を響かせて私は歩く。家までの道のりをずっと歩いている。人のいない夜道に靴音が反響して、私一人の靴音が何人もの足音に聴こえる。私は、一人でこの夜道を歩いているはずなのに、多くの人間が私と行き違う思いがして、何度…

042. 探索

私の右手、親指の付け根に痣がある。いつできたのだろう。覚えていない。その上にある傷痕は……、そうだ。カバンのジッパーに挟んでできた傷だ。深くまで皮が擦り剥け、なかなか治らなかった。だが、その下にある今の痣は何だろう。 寝る前に火を点けたキャン…

041. メロディー

どきどきする。全身の毛穴がそそけだち、首と肩だけが冷たい。腋の下にじっとりと汗をかいて私は目を醒ました。いつもの不整脈だ。心配することはない。冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出して、ミネラルウォーターを一口飲んだ。完全に飲み下した後で、一…

040. 泣き笑い

断薬からだいぶたってから、以前より不安に襲われる頻度が高くなってきた。断薬直後は何ともなかったのに、二月も経ってから以前よりひどい不安に駆られることが多々ある。医師に相談しようとも考えるが、今の今までじっと感情の波に翻弄されながらも耐え忍…

039. フレーズ

大好きな人の腕の中で何度も何度もおまじない。 「いやなことぜんぶぽいぽいぽい」 「いやなことぜんぶぽいぽい」 「いやなことぜんぶぽいぽいぽい」 このおまじないでいやなこと全部心の向こうに押し流す。 「いやなことぽいぽい」 今日は涙が止まらない。…

038. プレイス

空腹がどうしても勘弁できないほどになって、冷蔵庫の前で1時間。空いたみつまめの缶と葛きりの缶。ツナ缶の油はそのまま流しにどろりと流れ込んでいる。ビールとジンの空き瓶が足元で転がっていて、冷蔵庫の中は今まで見たことがないほどに明るかった。空っ…

037. 四季

少しずつ黒ずんでいく葉を、私はどうすることもできない。水が足りないのか、肥料が足りないのか、いろいろ試してみたが、この鉢だけは日々力を失っていくばかり。この前は株が二つ枯れて、土の上に残った茎を引っ張ってみたところ、腐った茶色の根がするり…

036. プラネタリウム

私の意志の力は案外弱くて、幻惑に任せて私はもう倒れてしまう。自分がこんな朽木のように倒れるなんて考えもしなかった。ああ、このまま朽ちてしまうのは嫌だ。朽木となってもせめて流木となって波間に漂い、いつか浜辺に打ち上げられるまでずっと空の下に…

035. 希望

道の端で本を売っている人間を、最近見るようになった。道を歩かず、じっとそこにいるのは、浮浪者と似非の托鉢僧と、風俗と居酒屋と宗教の客引きだけだと思っていたのに、違ったらしい。俺は半ば以上、嘲弄するように本を売る人間の目の前を足音高く通り過…

034. 69

今日は十二円拾った。昨日は五十円玉をひとつ拾った。一昨日は七円拾っている。「日頃の行いがいいから、神様がご褒美をくれるのよ」幼稚園の先生はそう言っていた。しかし、そうだとすると俺にはさっぱり覚えがない。日頃の行い……、今日は格段よいことをし…

033. 意思

足の止まるとき、私を捕えているのは言い様のない不安だ。このまま前に進むことができないのではないかという不安と、このまま後に戻ることもできないのではないかという不安がぶつかり合って、私はこのまま立ち止まっているままなのかという不安が増幅する…

032. 砂嵐

私の兄が死んで一週間になる。遺体はとっくに灰になっている、遺影の兄にも慣れた。それでも兄の亡霊が私の目の前から消えてくれない。 「どうしてまだそこにいるの」 「さあ、どうしてだろう」 兄は呼吸の途絶える前の少しの期間、意識がなかった。だから死…