陽だまりの子

Child In The Sun

2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧

039. フレーズ

大好きな人の腕の中で何度も何度もおまじない。 「いやなことぜんぶぽいぽいぽい」 「いやなことぜんぶぽいぽい」 「いやなことぜんぶぽいぽいぽい」 このおまじないでいやなこと全部心の向こうに押し流す。 「いやなことぽいぽい」 今日は涙が止まらない。…

038. プレイス

空腹がどうしても勘弁できないほどになって、冷蔵庫の前で1時間。空いたみつまめの缶と葛きりの缶。ツナ缶の油はそのまま流しにどろりと流れ込んでいる。ビールとジンの空き瓶が足元で転がっていて、冷蔵庫の中は今まで見たことがないほどに明るかった。空っ…

037. 四季

少しずつ黒ずんでいく葉を、私はどうすることもできない。水が足りないのか、肥料が足りないのか、いろいろ試してみたが、この鉢だけは日々力を失っていくばかり。この前は株が二つ枯れて、土の上に残った茎を引っ張ってみたところ、腐った茶色の根がするり…

036. プラネタリウム

私の意志の力は案外弱くて、幻惑に任せて私はもう倒れてしまう。自分がこんな朽木のように倒れるなんて考えもしなかった。ああ、このまま朽ちてしまうのは嫌だ。朽木となってもせめて流木となって波間に漂い、いつか浜辺に打ち上げられるまでずっと空の下に…

035. 希望

道の端で本を売っている人間を、最近見るようになった。道を歩かず、じっとそこにいるのは、浮浪者と似非の托鉢僧と、風俗と居酒屋と宗教の客引きだけだと思っていたのに、違ったらしい。俺は半ば以上、嘲弄するように本を売る人間の目の前を足音高く通り過…

034. 69

今日は十二円拾った。昨日は五十円玉をひとつ拾った。一昨日は七円拾っている。「日頃の行いがいいから、神様がご褒美をくれるのよ」幼稚園の先生はそう言っていた。しかし、そうだとすると俺にはさっぱり覚えがない。日頃の行い……、今日は格段よいことをし…

033. 意思

足の止まるとき、私を捕えているのは言い様のない不安だ。このまま前に進むことができないのではないかという不安と、このまま後に戻ることもできないのではないかという不安がぶつかり合って、私はこのまま立ち止まっているままなのかという不安が増幅する…

032. 砂嵐

私の兄が死んで一週間になる。遺体はとっくに灰になっている、遺影の兄にも慣れた。それでも兄の亡霊が私の目の前から消えてくれない。 「どうしてまだそこにいるの」 「さあ、どうしてだろう」 兄は呼吸の途絶える前の少しの期間、意識がなかった。だから死…

031. 羽根

パスポートにビザに運転免許証に保険証に毎日僕は大量の身分証明を持ち歩いている。それぞれがそれなりの機関から発行されているものだから更新の度ごとに著しい時間を損失する。それを使ってチェックするのにも時間がかかる。今、空港でもそうだ。飛行機で…

030. 命

私はなぜ人間に生まれついたのだろう。今、こうして一人の人間として生きている以上、この生を全うすることを考えねばならないのだろうが、病気に罹ってから私はこの人間に生まれついたことについてしばしば考えるようになった。人間でなければ、この病気に…

029. 炎

それは美徳ではない。人が何と言おうと私はこの信念を変えない。シルヴィネは天に背く人間だ。初めてシルヴィネに会ったとき、私はシルヴィネのことが不思議で仕方がなかった。それは私たち22歳の人間だけが持つあの消えつつある不安定の影と明るい希望の光…

028. 映画

僕の背がもう少し高かったら、と考えてしまう。僕の今の恋人は女性にしては上背のある方で、ハイヒールを履くと男性にしては背の低い僕は忽ち追い越されてしまう。僕の背がもう少し高かったら、ハイヒールを履いた彼女と並んで腕を組み歩けただろうにと僕は…

027. 骨

こうして何かを書き始めるとき、人は何に頼るのだろう。紙か、ペンか。自分の二本の手だろうか、十本の指だろうか。それともこの頭か、この心か。私は今、何に頼って書き始めたのだろう。ベッドに仰臥したまま窓の外を次々行き過ぎる季節を眺めていると、こ…

026. 蜃気楼(2)

キャンディのかけらがほしかっただけなんだ。キャンディのかけらが。寸刻の間、この舌の上を滑る甘い感触がほしかっただけなんだ。でも、誰もがそれをほしがればキャンディは一個では到底足りない。一袋のキャンディでも足りない。一箱、一ケース?私たちは…

026. 蜃気楼(1)

深夜。ベッドの上から手を伸ばして、蛍光灯の紐を引く。ぱちんと軽い音がして、一段、光が暗くなる。慣れているから、手を迷わせたり紐を捉えられずに苛立ったりすることもない。だが、紐を引く段になって私はいつも迷い始める。 一段、暗くなった光。 一人…

025. 蜻蛉

彼女が僕に振り向いてくれないのはどうしてだろう。毎日、僕は彼女の後ろを歩きながら考える。彼女は歩くのが早くて、ときどき僕は遅れてしまう。彼女の姿を見失ったこともある。その日は僕は一日自分を責め続ける。 「彼女が振り向いてくれないのなら僕は彼…

024. ごまかし(2)

つらいことをつらいと思わないようにしようとじっと我慢していた。でもできなかった。挫折を認めることができず、自分のことをなりそこねの聖人のように扱い、徒労とわかっている苦労を自らに科した。馬鹿だ。だが、そのとき真実を告げられ誰からか救いの手…

024. ごまかし(1)

人に言わせると、私は自由を標榜した人間であるらしい。自分としては組織に寄りかかりがちの人間だと常日頃から感じていたので、随分意外なことを言う人だと思った。大学時代、取っていた倫理学の授業で「他の自由を阻害する自由は自由ではない。純粋たる自…

023. 時の流れ

精神病を理由に総務部に異動になって明日でちょうど一週間。残業は絶対にさせないという言葉の通りに毎日定時に帰される。しかし、月に300時間労働、休日出勤、終電まで残業の日々が日常化していたため、午後七時半に家に着いても何をすればいいのかわからな…

022. 四面楚歌

雨が邪魔だ。洗濯ができない。泥の撥ねで裾が汚れる。 風邪が邪魔だ。思うように頭が働かない。薬を選ぶのが煩わしい。副作用で瞼が重い。私はこのまま電車に乗って仕事に行きたいだけなのに、足が上がらない。咳が出て、そのたびに字が曲がる。 電話が邪魔…

021. 霧

雨に降り込められて二人は同じ軒先の下でじっと時間を過ごしている。まだ年若い青年二人、湿気て冷たい春の空気に薄いシャツの下の肌をこすりながら雨のやむのを待っている。二人の間の空気に棘はなく、熱のある日の氷枕のように冷たく心地よい。ただ、ずっ…

020. 攻守

あの子は、いつも僕の側にいてくれるけど、僕はあの子のことが好きなのだろうか。 「ねえ、映画に行かない」 僕はそれだけ言い出すのに、二週間かかった。 「その後、お茶して買い物して」 「それで?」 あの子は、右手で自分の襟足の髪を引っ張りながら、上…

019. カラス

光なく影なく人の声もなく 耳に届くは風と波の激しくも懐かしい声 筆の跡も生々しい空気の流れと 頑なにそれを溶かそうと景色にむしゃぶりつく雨粒名前も知らないこの土地で 私は行く場所も知らないのに 雨風にされるがまま茫然として だが安心しているのは…

018. 流れ星

ミセス・マリグラスは毎晩ベッドに横たわると窓の向こうの星に手を合わせて願いごとをする。 「子供が授かりますように」 ミセス・マリグラスとミスタ・マリグラスの間にまだ子供はなかった。二人とも子供はほしいと考えていたが、今子供が生まれても育てら…

017. 宇宙

著しい生命感の喪失や行動の制止症状に苛まれることが少なくなった。それにつれて今までは考えもしなかった事象に次々と疑問が浮かぶ。自分が考える力を取り戻したことはとてもうれしいが、その力をどこに配分すればよいのか、何に振り分ければよいのかわか…

016. 陽射し

子猫を飼いたい。小さな猫がいい、これからどれぐらい大きくなるか楽しみだから。毛並みのきれいな猫がいい、これから何千回何万回もその背中を撫でるのだから。毛の色は黒がいい、闇からそのまま抜け出たような透き通る黒。向こうの見えない墨色の猫は少し…

015. カレンダー

俺は傷ついているのではなくて、怒っている。そこは勘違いしないでほしい。差別されることは当然と自分では納得している。知っているか、「差別」は元来「区別」と同じ意味だったんだ。違いを知って、それに基づいて物事を分別する。「理解」するに近いのか…

014. 虹

少し、昔話をする。小学校の同じクラスに、今の私と同じ病気の子がいた。男の子だった。その子の様子がおかしくなってきたことには皆気づいていたが、原因としては風邪を引いたのだろうと思い至ることが精々で、彼のことを誰も理解できなかった。男の子はし…

013. 通り雨

この業界に身を置いていると、割と頻繁に同僚との別れを経験する。ある人は同じ業界の別の会社に移り、ある人はまったく違う業界のまったく違う職種に移る。たまに同じ業界の違う職種に移る人もいるが、これはあまり多くない。今日も一人の同僚の退職が発表…

012. 曇

ジルベールは鏡のようにワックスで磨きこまれたグランドピアノの蓋に手をついて舞台に立っていた。満員の観客に背を向けて…。グランドピアノの前では彼の恋人のマリグラスが彼の田舎の童歌をゆったりと奏でている。二人はこう話し始める。 「アラン、私は思…