陽だまりの子

Child In The Sun

050. 煙

 椅子にかけた男の肩に腕を回して女は男の背中に額を預ける。男は自分の肩の上の腕を払うでもなく、自分の背中の女の額を退けることもなく、そのままにさせている。
「煙草、やめたらいいのに」
男の手には、細身のシガレットホルダーが握られている。これで吸うと指ににおいがつかないのだと言って、男はいつもシガレットホルダーを使っている。だが、いくら指ににおいがつかないといっても、この部屋に立ち込める煙には何もかも紫に染まってしまう。
 男の唇から細く吐き出される紫煙は、ふわふわとしばらくあたりを漂い、次第に弧を描いて壁をよけ、天井へ上っていく。そして、天井でくるりと返って床に落ち、足元から部屋を紫に染めていく。
 女の髪も服も、もうすっかり煙に染まってしまった。
「あなたのにおいは何かしら」
男の体からは色濃く煙のにおいがする。女は伸び上がって男の髪に鼻を入れ、男のにおいを探す。男の髪から滝のように煙が流れ、女はしばし、男の髪のうちで陶然としている。
 この煙は熱いのだろうか。冷たいのだろうか。男の髪から流れる煙は、冷たくはない。男の体温と同じ温度で、次々にこぼれ出る。
女は男の方から両腕をはずすと、おもむろに男の髪を両手で引いた。痛くない程度に、そっと。
「何のにおいかしら」
 温度を持つ、このにおいは何のにおいだろうか。煙草のにおいは、きっと熱いはずだ。シガレットホルダーの先で燃える、煙草の葉は男の呼吸でたちまちに灰になる。
「このにおいは何かしら」
 そのとき、男の手がふと女の手から髪の毛を奪い、シガレットホルダーを握らせた。女は男の髪から顔を出すと、手の内のシガレットホルダーに視線を落とす。
「俺の体から煙の匂いがするのは、自分の体が煙草のように焦げていくからだよ」
男の体は金属で、血の代わりに黒い油がその体を流れている。その油に火が移り、いつまでもくすぶっているのだ。
「ただ、煙が炎より熱いはずがない。だから、生温かい煙がこうしていつまでも残るんだ」
だから、男の体からは人肌の煙のにおいがする。女はまた男の髪の中に鼻を差し入れ、深く息を吸い込んだ。
 男の体からは、男の体が焦げるにおいがする。血の燃えるにおいがする。