陽だまりの子

Child In The Sun

五色の山 - 東の青い山 第2話

 夜、囲炉裏を中に先程の嫗と一人の年老いた男、娘の三人が座っている。鍋に雑炊が煮えていて、娘は木匙をふうふう吹いて、鉢から雑炊をかき込んだ。
「まだ幼いのに、実に感心なことじゃ」
男は自分の顎鬚をゆっくりと撫で、白湯を啜って息をついた。遠く平安に端を発すという由緒あるこの家の主は、この男。普段は鋤鍬を手に田畑を耕しているが、いざ戦となるとそれを弓矢に持ち替えて都の主人の下に馳せ参ずる。老いたりと雖も、その腕に少しの衰えもなく、一刀、馬をも薙ぎ倒すというその剛剣は健在で、近隣にその名を知らない者はない。娘は先程、その話を嫗に聞いて目を丸くした。
「お薬師様を巡るのは、やはり病の平癒を願ってのことか」
男の問いに、そうです、と娘は頷く。
「身内でどなたか体の悪い方でもいらっしゃるのか」
「いいえ、わらわのためです」
「はて、見たところどこも悪そうには見えぬが」
「目です」
ああ、と二人は頷く。娘の目には少しの翳りがあった。強い光を嫌い、行灯の朧な光にも俯きがちに話す。
「今はまだ支えはありませんが、そのうち全く見えなくなるでしょう。わらわの家は代々、皆この病で光を失くしております。これは血の病。お医者もそう言って、わらわに諦めるように説きました。しかし、わらわは諦めきれず、この四十九の薬師霊場を巡ればどんな病も癒える、この青山寺のお薬師様は殊に目の病に利益があると風に聞き、居ても立ってもいられず家を飛び出したのです」
「そうじゃ。ここのお薬師様の薬壺の秘薬をいただき、それを煎じて飲めばどんな盲でも、たちどころに光は戻ると古くからの言い伝えにある。しかし、寺ではその秘薬の徳ばかりが称揚されることを厭い、近頃ではその薬壺は仏像もろとも深くに秘してしまい、この村に住まいするわしらとて、その薬壺はおろか仏像も見たことはない。そなた、どうするおつもりじゃ」
「何とか説得してみます」
娘の頬に緊張が走る。
「実は、あの青山寺にはわらわの父がいるのです」
何と、と二人は顔を見合わせる。
「わらわが生まれてまだ間もない頃です。父も今のわらわと同じように徐々に光を失いつつありました。父もまた、それを諦めきれず仏力に縋ろうと僧籍に入り、あの青山に入山したのです」
そして、父は未だ戻らない。
「まだあの寺にいるのなら対面することができましょう。もし下山していても父の消息は知りえましょう」
娘は目元をそっと押さえ、再び続ける。
「実は、わらわの母が長年の心労で病の床に伏せっております。お医者はもう長くないと言いました」
「お父上を下山させなさるのか」
「還俗せずとも一時下山し、一目でいい、母にその姿を見せてほしいのです」
 戸の向こうでぱたぱたと娘の着物が風にはためく音がする。娘は洗いざらしの髪を紙縒りで結わえる。行灯の光がゆらゆらと揺れて、夫婦は娘に床につくように勧めた。納屋の隅で構わないと固辞するのを無理に寝かしつけ、二人は火の消えかかった囲炉裏の傍で、何か話し込んでいる。
「しかし、おぬし。かの薬壺の話はまことか。この村に長く暮らすわしとて初めて聞いたぞ」
「ははは、おぬしが隣村から嫁に来た頃には既にあのお薬師様は秘仏となっていたからな。しかし、未だ霊場を廻る巡礼の間では広く知られているようだ。あの娘も誰か、他の巡礼からその話を聞いたのだろう」
「そのお薬師様の薬の効用というはまことか」
「今、村に住まいする者でその効験を見た者はいまいよ。遠い、遠い昔の話じゃ」
蚊帳のうちですやすやと眠る娘を二人は不憫そうに見つめ、溜息をつく。
「おぬし、朝にはあの娘とともに青山寺に行ってやってはどうか。娘一人では心許ない。笈も背負ってやるがよい」
「あの娘、断るだろうよ。だが、あれほど健気な娘を一人行かせて、ただ失望させるのは目覚めが悪かろう。ぬし、明日の朝には弁当を二つ頼むぞ」
「やはり、おぬしはよい男じゃな」
「よせ、今更誉めても過ぎたことだ」

五色の山 - 東の青い山 第1話

 汚れた脚伴に六角の杖ついて、陽炎の中、一人の巡礼がやってくる。頭上の笠にも背中の笈にも夏の日差しは過酷に照りつけ、巡礼の頤から玉のような汗が滴り落ちる。水田の面からゆらりと立ち上る蒸気に幾つかの茅葺の屋根を認め、巡礼は一つ息をつく。切り絵のようにくっきりと浮かび上がるその影より顔を覗けば、まだ年端も行かぬ娘。
 巡礼の娘はほとほとと農家の戸を叩く。
「もし、水をいただけませんか」
年に似合わぬ凛とした声。出てきた家の嫗は、前掛けで手を拭きながら怪訝に尋ねる。
「巡礼のお方、お連れの方は」
「先達はおりませぬ。わらわ一人でこの四十九の霊場を廻っています」
網笠を取ると、その下から汗にまみれた面が現れる。額の汗を手甲で拭い、娘はまた息をついた。
 この島には四十九の薬師霊場があり、その霊場の全てをその足で回り、心を一に薬師如来に祈れば、結願の日にはどんな業病もたちどころに癒え、一族の無病息災延命が叶うと言われている。そのため、数百年の昔からこの地に巡礼の影は絶えることがない。
「それはそれは奇特なことじゃ。さあ、どうぞお上がりなされ」
 娘は框に腰掛けて、嫗に水を貰うとさも美味そうに飲み干した。手拭いでその額を押さえ、ほつれた鬢をかき上げる。年頃は十二、三。品のある面差しをしている。
嫗はその様を目を細めて眺めていたが、ふと気がついて娘に声をかける。
「今日は青山寺まで行かっしゃるのか」
この村を過ぎ、眼前に迫る山を登ればそこに青山寺と呼ばれる二十三ヶ所目の霊場がある。
「ええ、そのつもりです」
「それはいけない」
嫗はもう一杯と少女に水を勧め、続ける。
「そなたの足では山に登る前に日が暮れてしまう。青山は近くに見えて遠き山。道は山の周りを逡巡し、上れば下り、下れば上り、大の男でも登るのは一日仕事。今日はここに泊りなされ。明日の朝、日の出とともにこの家を出ればよろしい」
「山の中で夜を明かしても、わらわは一向に構わぬ」
「およしなされ。低い山とは言え、黄昏には猪、深更には狼、明け方には梟がそなたを襲う。およしなされ」
 娘はしばらく思案顔でいたが、やがてこっくり頷くと草鞋を脱いだ。

五色の山 - 序

 東には草繁る青い山、南には赤く燃え盛る赤い山、西には白く輝く金の山、北には満々と水を湛えた池を抱いた黒い山、そしてその四つの山の真ん中に一際高く聳え立つ砂塵吹く黄色い山があった。
 其々の山が其々の地にいつ現れ、いつその形を成したのか、知る者はいない。しかし、其々の山には今に伝わる一筋の物語がある。

100. その形

私の書く文章は、標本のようなものだ。私の夢の拓本、押し花。私は夢の形をそのまま残そうと、その形を文字という手で紙に押し付ける。

私は画家でも彫刻家でもないし、写真家でもない。自分の目に見えるものを他人に見せるには文字でそのイメージを縁取り、文章で肉付けしていくしかない。だが、その文章に力があるわけではない。私の文章はただ、自分の目に見えるもの(現実、非現実を問わず)をそのまま書き取ったものだ。万が一にでも私の文章を読んで感動した人がいるとすれば、その人は私の文章に感動したのではなく、私の見たものを文章のスライドを通して見て感動したにすぎない。それは、プレパラートの薄いガラスの上で潰れた、私の夢の標本なのだ。

自分には文章を書く力があると奢っていた時代は過ぎた。私はただ、書いて書いて書き続けている。夢の標本を作り続けるために書き続けている。

099. 1つと無い

シャーリーンは自分が死ぬことを信じなかった。死ぬことを信じなかったので、死と向き合う前に彼女はこの世を去った。彼女が死んだのは夏の終わりで、彼女の庭にはまだバラが咲き残っていた。

シャーリーンは花を育てるのが上手だった。自分の身の回りのことよりも花のことを優先して、自分の手が泥だらけで傷だらけになっていても、花が咲けば幸せそうだった。新芽が出れば大声を上げて家族を呼んだ。シャーリーンは家族を愛していた。彼女は家族が少しでも暮らしやすいようにと細々としたことまで家族の世話を焼いた。世話が行き届きすぎて却って家族に疎んじられることもあったが、彼女は不足より過剰がよいと信じていたので、いくら鬱陶しがられても世話を焼き続けた。彼女の親切はけして自分自身に向かうことがなかった。与えることばかりでけして見返りを求めなかったので、彼女は人からとても愛されたが、同時に人から受ける好意を是として受け入れられない人にはこれ以上もないほどに鬱陶しい存在だった。しかし、彼女はそういう人間の存在を信じなかった。すべての人間は彼女の親切を受ける権利が有り、彼女にはすべての人間に善意を施すことを義務として課せられると彼女は感じていたのだろう。彼女は現代に生まれるには少し違った人間だった。彼女は自分の人生の路上の石をひとつひとつ取り除けて進んでいった。けして石や道を横切る川を横切ったりはしなかった。石は道の横に積み、川には細い丸太を渡して橋を作った。自分の後ろを歩く人間のことを考えてのことだ。彼女は自分が進むにも、必ず後の人間のことを考えていた。

しかし、シャーリーンは死んでしまった。夏の終わりの暑い日に、自分の死ぬことを信じられず、体中に取り付けられた点滴のケーブルを抜いて自分の家に帰ろうとした。どんなに看護婦が止めてもバラの世話をするのだと言い張って聞かなかった。そしてベッドから降りて一歩を踏み出したときそのまま倒れ、心臓が止まって死んだ。死の宣告を受けてから2ヶ月も過ぎていなかった。彼女は自分の死を受け入れる前に死んでしまった。シャーリーンは死んでしまった。

シャーリーンは自分の道が永遠に続くと信じていた。自分の道は常に誰かの道と交錯し、自分の道がどんなに困難であろうとも、その困難は自分ひとりのものではなく自分の道を横切る誰かと共有されるものだ。そして彼女と同じ道を歩く人間は彼女の同志だった。彼女は永遠に続く道を歩き続け、常にその道がよい方向に向いていると信じて疑わなかった。その道が途中で途切れることなど、彼女には信じられようもなかったのだ。死によって道が途切れることなどないと、彼女に誰か教える人間はいなかったのか?彼女と同じ道を歩く人間がいる限り、彼女の歩いた道は途切れることはない。道が風化して橋が流れ小石が道の上を覆ってしまっていても、その上を歩く人間が現れる限り道はまたいつか現れる。ただ、その永遠にも近い時間の中で彼女の施した親切は芥子粒ほどに小さいものだ。効力など殆どない。でも、それをシャーリーンに告げたところで彼女の生き方は変わっただろうか?それは彼女の歩んだ道ではなく、彼女の道の歩き方だったのだ。それは、彼女の魂のほかにひとつとしてない美しい生命の輝きだったのだ。

098. 無駄な夢

 降り始めの細かい雨が、車のヘッドライトに浮かび上がり、アブラムシの群れのようだと僕は思う。自分の手には紺色の古ぼけた傘、行き違う様々な色の車。
 ここ数日、腸の底まで腐ってしまいそうな雨が続いたが、今日の雨はさわやかだ。第一、雨粒が冷たい。その上、今日は風がなく、自分の傘に垂直に雨が落ち、ナイロンの上を滑る雨粒は細かいさらさらと砂の音がする。僕は小さく口笛を吹き、家への道を急いだ。
 二車線の狭いバス通り。バスが停まるとしゅっとガスの抜ける音がして、バスの扉が開く。コンビニの前のバス停で、ばらばらと人が降りる。皆一様に傘を広げ、僕の隣を過ぎた。
 その中に一人、緑の傘の女がいた。その傘を見つめて、僕は一瞬立ち止まった。
 なんてことはない、ただの傘だ。色は鮮やかな緑で、縁にフリルがついている。全体に丸い形で、時代の貴婦人が持っていそうなデザイン。ただ、生地はナイロンで、スチールの骨も安っぽかった。女は、それを広げると小さなバッグを肩に歩き始める。僕は、足を止めて、その女の後姿を見送った。
 緑色の傘を差して、「ねえ、お嫁さんにして」と、僕の恋人は唐突に言った。
「どうしたの、急に」
僕は慌てた。恋人は傘を左手に持ち帰ると、空いた右手で僕の左手を掴む。
「一緒に暮らしたいの。一人で家に帰りたくない。一緒にいたいの、さびしいのよ」
驚きを過ぎて、僕は半ば呆気に取られ、恋人の顔をまじまじと見つめた。
「こんなきれいな雨の日に、部屋で一人、音を聞いているだけなんて」
やだやだ、と恋人は地団駄を踏む。
「つまんない。せっかく恋人がいるのに、つまんない」
僕は結局そのプロポーズに返事をしなかった。恋人はそれからしばらくして、別の男と結婚した。
 あのとき、あの雨を美しい、きれいだと思っていたのは恋人だけではなかった。自分も、あの雨を今日と似たあの雨を美しい、好ましいと思っていた。だが、恋人の唐突なプロポーズに驚いて、それを言えなかったのだ。自分もそう思っていると告げればよかったのか。いや、本当は自分も恋人と暮らしたいと思っていたことを話せばよかったのだろうか。
 僕には、そのとき恋人と暮らせない理由は何もなかった。しかし、僕は「つまんない」とは感じなかった。一人の時間を「つまんない」とは感じていなかったのだ。だから、恋人のその言葉をかわいらしい、女の我儘だと決めつけてしまった。ただ、その感情のつまらない齟齬ひとつだけで。
 六月の雨は、やはり。緑色の傘の女は次の角に消えた。僕は歩き始める。きっと、明日からまた腸の底まで腐ってしまいそうなじめじめした日が続く。

097. 息を止めた

机の下から、昨日飲まなかった錠剤を見つけた。寒波で冷え切った部屋で湿気た様子もない。このまま埃を払って飲んでも平気だろう。ただ私は今、その錠剤を飲んだばかりなのだ。毎朝、私はこの錠剤を飲むことにしている。処方量は一日一錠。今日、これを飲んでしまえば一日二錠飲んだことになる。しかし、この錠剤を一日二錠処方されている人もいるので、二錠飲んでも問題ないのだろう。私は逡巡する。今日飲まなければ、この錠剤は明日には湿気て飲めなくなってしまうかもしれない。それなら、今二錠飲んで、明日飲まなければいいのではないか。

今までに私が飲んだこの錠剤の数は238錠。私は幾つこの錠剤を飲み続ければ、この薬をやめられるのだろう。中国の皇帝が不老不死の薬と言い聞かされて、水銀を飲み続けた。水銀は人間の体を害す。人間を殺す。しかし、命亡き後の体を水銀はそのままに保ち続ける。不老不死の水銀のため、皇帝の体は変容して、命の所在を受け入れなくなったのか。この薬は、私をどう変えていくのだろう。自己の変化を恐れるな、変化は退行ではない。それは本当なのか。私は元の体に戻ることを望んではいない。だが、どう変わりたいのかも私にはわからない。この不安を感じなくさせる薬も処方されている。私は何も感じない人間に、今変わりつつある。何も感じなくなれば、私はこの薬をやめられるのだろう。そのときには、この薬を飲むことにも、今のように何かを感じることもなくなっているだろう。何も感じなくなったことに気づかず、私は未来永劫、この薬を飲み続けているのかもしれない。滑稽な、結末。そんな体になれば、自分で息を止めて死んだことにも気づかないかもしれない。