陽だまりの子

Child In The Sun

096. クローバー

どうしてもやまない雨、だんだん沈んでいく気持ち、凍りついたように冷たく強張った私の両手。ああ、だめだ。このままじゃだめだ。傘を広げて家を出た。さっきまで窓を叩いていた雨は私の傘の上でころころ転んでいる。そうだ、L&Pを買ってこよう。デイリーまで歩けば30分だ。30分なら歩ける、30分なら戻ってこれる。

デイリーで買い物をして店を出ると、目の前の公園に私と同じように傘を差してたたずむ人がいた。私と違うのはデイリーの袋を持っていないことと、うつむいて何かを探していること。男の人だろうな。肩幅でそれとわかる。初秋の芝生の上に何を落としたのか。気になって声をかけた。
「どうしました。落し物ですか」
「いえ、探し物です」
似たようなものだろう。私は歩を進めて芝生に足を踏み入れた。初秋の芝生は静かだ。これほど雨が降っても草いきれを感じることもない。荒々しく私の靴に抗うこともない。雨がしとしと降り続いている。
「何を落としたのですか」
「いいえ、四葉のクローバーを探しているんです。餞別にしようと思って」
カードでは月並みでしょう。プレゼントでは荷物になるし。彼は私の傘の上に自分の傘を差しかけて「肩が濡れていますよ」と言った。
「どれぐらい探しました」
「1時間ぐらいですか。もう少し簡単に見つかると思ったのですが…、もう夏も終わりですからね」
「そうですね」
相槌を打って私は自分の上の彼の傘を見上げた。大きな蝙蝠傘だ。普段はこの傘を差して働いているのだろうな。傘の影に隠れて彼の口元が笑っているのが見える。雨に混じって彼の香水の匂いが鼻先にひんやり伝わってくる。
「お買い物でしたか」
「あ、はい」
私は自分のデイリーの袋に目を移して、それから自分の足元に目をやった。そうだ、ここにはツメクサがたくさんある。春にこの公園に来たときは子供がたくさんツメクサの冠をかぶって遊んでいた。雨の公園で今いるのは、私と彼だけ。彼は別れゆく誰かのために探し物をしている。私は自分のためだけに買い物をして立ち去ろうとしている。公園に心を残すのは今は誰もいない。初秋の雨の公園は本当に静かだ。
「私も一緒に探しましょうか」
「よろしいんですか」
「いいんです、暇だし。家に帰っても誰もいないし。それに、もうすぐ日が暮れてしまう。日が暮れたら探せないでしょう。急ぎましょう」
私はデイリーの袋をベンチに置いてくると、彼と一緒になって四葉のクローバーを探し始めた。初秋の死んだ公園で私は踝まで芝生に埋まりながら手を雨に濡らして四葉のクローバーを探し始めた。

彼は誰に四葉のクローバーをあげるのだろう。四葉のクローバーは幸せの象徴。それを持つ人間に幸せをもたらす。彼は誰に幸せになってほしいのだろう。そう考えてふと、彼の背中に目をやると、彼の背中に転々と雨の跡が付いていた。いったん濡れて乾いた跡。探し始めて1時間なんて嘘だ。それより前から探していたに違いない。そうまでして探すクローバーをあげるのはきっと恋人だろう。
「ありましたよ」
ぷちんと音を立てて摘み取ると、私の手の中で四葉のクローバーが雨に震えているのがわかった。あなたは遠い異国へ行くの。誰かと一緒に海を渡って、彼の愛しい誰かに幸せをプレゼントするんだ。私が四葉のクローバーを差し出したとき、彼が本当にうれしそうに笑っているのがわかった。蝙蝠傘の影で口元しか見えない。彼の手に触れて、あれほど冷たかった自分の手が真っ赤に熱を持っているのがわかる。彼はクローバーをそっと手帳に挟むと鞄に入れて私に何度もお礼を言った。私は自分の火照った手を頬に押し当てて、何度も「いいんです」と繰り返す。私の腕から傘が落ちる。私は一瞬夕闇の中で雨に濡れた。次の瞬間、差しかけられた彼の傘にまた守られていた。私は幸せをまた手放してしまった。

095. 苦笑

雨が桜の花も何もかも押し流してしまった。若葉にはまだ早い新芽が木の間に漂っている。
「今日も何も予定がないの。つまんない」
少年は自分の靴下の先を引っ張りながら口を尖らせた。さっき自分で焼いて食べたホットケーキのせいですっかり眠い。でもこのまま眠るのは癪だ。ぐずぐずとソファの前で本を眺めている。
「明後日には出発だろう。いいかげんトランクを閉じたらどう」
「やだよ、明日また入れたいものが出てくるかもしれないじゃないか」
少年の兄と思しき青年が溜息をつきながら皿を台所に片付ける。
「明後日まで準備以外何もできないなんて、出発って面倒くさいんだね」
「どういうものだと思ってたの」
そうだね……、と少年は本をぽんと投げ出すとソファの上にごろんと横になった。
「ホットケーキを食べたのは冷蔵庫に残っていた最後のマーマレードを食べてしまいたかったからだよ。固くなっててビンの底から拾いづらかったから電子レンジでちょっとだけ温めて緩んだところをすくったんだ」
こうだよ、と少年はスプーンでビンをすくう手真似をして見せた。
「そうだね、おかげでマーマレードのビンはすっかりきれいになったよ」
「そうでしょう。マーマレードも残らず僕のおなかの中に入った」
雨はまだ降っている。明日も雨だ。昨日一日は晴れていたのに、雨は二日も降り続く。不公平だよね、と少年は兄の真似をして溜息をついた。
「マーマレードもホットケーキも冷蔵庫も、僕は何も持っていかないのにどうして僕の出発にこうも関わるんだろう。トランクに荷物を詰めて閉じるのはわかるよ、でもさ、この家で自分が使っていたものを一々自分で片付けていかなくてはいけないのが面倒くさいんだよ。それも準備のひとつだってのはわかるさ。僕はこの家に帰ってくるんだから……」
「そうだね。家に帰ってきたときに冷蔵庫の中身が腐って食べられないものばかりでは困るだろうからね」
「兄さんはそう割り切って考えられるのだろうけど、僕は得心がいかないなぁ。もうすぐ出発なのに、自分がいつもよりずっと深くこの家に結び付けられていく気がするんだ。マーマレードだのホットケーキだの冷蔵庫だの、後ろ髪引かれるってこのことなのかなぁ」
「お前は考え深いんだよ。感じることに対して考えずにはいられないんだ」
「損な性分だよ」
「いいや、いいさ。家に残る僕にもお前なら必ず帰ってくることがわかるからね」
「明後日になれば、すっかり忘れてしまえるといいな」
「お前には無理だよ」
ははは、と兄は声を立てて笑うと半分脱げた弟の靴下をぱっと奪い取って洗濯物置き場に放り込んだ。
「この靴下を洗うのは僕だよ。干すのも僕だ。僕は先々のことも後のことも心配してない。雨が続くと洗濯物がたまって困るなとは思うけどね、思うだけさ」
「俺の心配はしないの」
「するさ、でもお前は僕の心配はしなくていい。家でお前が帰ってくるのを待っているよ」
「兄さんが僕の心配をしているのではないかと心配なんだよ」
「やっぱりお前は損な性分だね」
「そうだね」
弟の投げた本を取り上げると、兄は本棚に片付けた。
「もうおやすみ、起きているとお前は考えすぎる」
そうする、と目をこすりながら寝室に入る弟の背中を見送って兄は声を出さずに笑っていた。
「損な性分だよ、心配でどうしようもなくなるのに」

094. 限りある

 一人の部屋で、コロナを空ける。誕生日に買って残っていたコロナだ。あの日は、ケーキを食べてワインを飲んで、中途半端なセックスをして寝てしまった。彼が一緒だった。
 でも、他にもあの日したかったことがたくさんある。ケーキだけではなく、私も彼も大好きなピザとアイスクリームを取って食べてかったし、このコロナだって一緒に空けたかった。
 私には、食べることしか幸せがないのだろうか。コロナの空き瓶が目の前にある。
 限られた幸せは、こうして空になってしまう。

093. 遥か彼方

「何であの仕事辞めたの?」
理由は特にないんだけど……、と久しぶりに会った女友達は言いよどむ。彼女が時間ができたので会おうと電話してきたのが昨日。長く会っていなかったので飛んできてみればこれだ。仕事を辞めたと切り出されても私にはどう応えていいかわからない。だから理由を問い返した。
「私のやっていた仕事って、女の子になら大概勤まる仕事だったでしょ」
彼女は有名洋菓子店の販売員の仕事をしていた。
「やりがいもないわけではなかったのよ。でもね、この仕事を私はずっと続けていって何かいいことがあるのかなって考えたりして。もし、私がこのまま五十のおばさんになってもこの仕事続けていられるのかって考えたりしてね」
彼女は早口で続ける。彼女の言葉は理由ばかりで同意を私に求めている。
「気持ちはわかるけど……」
何も辞めることはないと思うけどね。私の言葉に彼女はがっくりと肩を落とした。目の前には散々に崩されたストロベリータルト。彼女は自分の店の物より不味い洋菓子は絶対に一口以上食べないのだ。
「ね、今度は私の話を聞いて」
私はケーキの味の違いなんてわからない。
「私のやっている仕事だってそうよ。誰がやったって同じよ。成果が大きく違ってくるなんてことはない。でも、私はこの仕事をするの。私は私で選んだのよ」
言葉の途中で私は気づく。そうだ、彼女だって辞めるということを選んだのだ。
「事務の仕事から始めて、違う道が見つかればいいなって思ってるの」
そう言って、ハンカチで手の汗を拭った彼女の顔は少し青ざめていた。

彼女は今、自分の進んでいる道がはるか彼方で二手に分かれていることに気がついているのだ。彼女はそれを見晴らして、今進んでいる道とは違う道を選ぶことをあらかじめ選択した。まるで預言者のように、彼女はこれから自分の人生に起こることを知っているのだ。人生に道標のように置かれた老いという石に躓かないために、彼女は知らぬ道を選んだ。

道は、どこまで続くのだろう。右に向かえばよいのか、左の道が正しいのか。右の道を選べば獣に食われるかもしれない。左の道を進めば断崖絶壁から転がり落ちるやもしれぬ。それでもなお、私たちは選び続けて道を歩み続けなければならないのだ。なぜなら道は途切れることがないからだ。私たちが生きている限り、私たちの前には必ず道が開かれている。

「違う道か……」
「あなたはそう考えないの?」
次の彼女の問いに私は応えなかった。

092. いつかどこかで

林檎と水だけの夕飯を済ませてしまうと、私はベッドに飛び込んだ。ぎしぎしいうスプリングと鉄のフレーム。部屋は冷え切っている。「週に5ドルなら上等だわ」と言って借りたこの部屋が寒々しく感じられるのは、嵐の夜でもなく、霜の降りた朝でもなく、今日の夜のように冬なのに春のように暖かく、自分の腹が満たされているときだ。満足していることに不足を感じている……。シーツの中で私は四肢をぐっと伸ばした。晩御飯の林檎が胃の中でごろごろいう。

晩御飯の林檎は、人から貰ったものだった。実家が林檎の名産地にあると言って、職場の同僚が送られてきた林檎を配っていた。私は遠慮なくそれを受け取った。なぜって、その林檎を晩御飯にしようと思いついたからだ。今日の晩御飯の予算だけ、お金が浮くと思って。その太陽の光を思いっきり中に貯め込み、はちきれんばかりに熟した林檎がおいしそうに見えたからではない。

私は1ペニーだって無駄にできるお金はないのだ。借金はないが、貯金もない。「贅沢さえしなければ充分に暮らしていける」お金だけが手元にあって、毎日が綱渡りのようだ。当座の金が手元に幾許かあったとしても、その金が尽きたときの保証はない。将来への不安が、鳥の羽音のように耳元で羽ばたき続ける。この不安に立ち向かうには、私は「贅沢さえしなければ充分に暮らしていける」この状況に得てして満足しなければならないのだ。私は隠れ守銭奴だと自分を嘲ってその日を暮らす。

私と同じ隠れ守銭奴たちは、誰に問われることもなく正確に自分の今の銀行通帳の金額を暗唱できるだろう。自分が1ヶ月生き延びるのに必要な金額は幾らなのか、明細まで揃えて暗唱できるだろう。1ペニーだって間違いやしないのだ。私たちはその金額と明細だけが次の日の出までの自分の細い命綱であることを知っている。そしてその綱を離さぬようしっかりと握り締めているのだ。綱を握り締めている限り、奈落に落ちぬ限りは、神の恩寵のように何か自分に与えられるものがあると信じて夢見ているのだ。ある日、宝籤が当たったり、遠縁の親戚から莫大な遺産を譲られたり、何か小説のように自分にも幸運が訪れると信じている。そう、夢のようなことを…。どんなに夢のようなことであっても自分に訪れることはないと感じていても、ただ明日のためだけにこの金という綱を離せないのだ。

冷たい林檎と水だけの夕食、しかし今日の夜は暖かい。この夜の合間に眠ることで、私は恵まれない幸運に少しだけ近づいていく。綱がきりきりとしなる。その音は時計のぜんまいの音なのか、ベッドのスプリングの音なのか、疲労した耳にはもう、区別はつかない。

091. デイ

 靴下をぽとんと洗面器に落とすと、ぬるま湯のうちにさっと赤い斑紋が広がった。血だ。
 階段で派手に転んで救急車で病院に運ばれた。爪がはがれていただけで傷は大したことはなかったが、それでも目が覚めるほどに痛い消毒液で下半身が痺れるまで消毒され、ガーゼを何重にも当てて包帯を巻かれた。
「痛み止めを飲まないと夜、目が覚めてしまいますよ」
当直の若い医師はそう言って処方箋を書いた。使っていたのは製薬会社の名前のプリントされた安いノベルティのボールペンだ。会社名と胃薬の名前が併記されているところが何とも真実味がない。この医者は外科が専門なのだ。
「どれぐらい痛むんですか」
「個人差はありますが、今まで出した痛み止めの量が多すぎたことはありません」
 つまり、足りなかったことはあるんだな。
「僕は薬なんて要りませんよ。今これだけ消毒したんだ。それに痛みには強い方ときてる」
「そうですか。お薬は出しますので、痛みだして我慢できなくなったら飲んでください。飲まなくても傷の治りに差はありませんが、健康には睡眠が何より必要だということをお忘れなく」
 僕は洗面器の赤い斑紋をじっと見つめている。あの医者が言うことが正しかった。僕は今、痛みに耐え切れずベッドから抜け出してきた。それで無聊をかこち、暇を持て余して一人で血に染まった靴下を洗っている。洗面所の蛍光灯が僕の足の包帯を映す。転ばなきゃよかった、階段から落ちなきゃよかった。
「出血だけでよかったですね」
医者の言葉だ。
「骨まで響いていなくてよかった」
よくない。こんなに痛いんだ。量の多寡を問題にしているんじゃない。0か1かだ。怪我をしなければよかったのだ。怪我をしなければ明け方に目を覚まして、一人洗面所で自分が汚した靴下を洗うなんてことなかったんじゃないか。
 あ、カラスが鳴いた。夜が明けたのだ。
 この包帯だらけの足は靴下と大きめの靴を履けばスーツの裾に隠れてしまう。後は、人に足を踏まれなければ何の問題もない。痛み止めが効いて電車の中ではすぐ眠れるだろう。そうだ、傷を治すには睡眠が肝心だ。一日やり過ごせば、痛みは少しはましになるだろう。

090. スロウモード

履歴書を書いていて職歴に差し掛かると、誰かに心臓をぎゅっと掴まれるような陰惨な痛みを胸に覚える。自分が如何に無能な人間か。5年も仕事をして口に糊して世を渡ってきたのに、自分の時間はわずか数百字程度の文字にしかならない。仕事のその場では自分の仕事は有意義だと感じて他に先んじた優越感に浸っていても、今、私の手元にある文字は正直だ。時は戻らない。時間が過ぎればすべてのことが陳腐化することに気づくのが遅すぎた。馬鹿は私一人だ。自分の乳房に手を添えて、自分の鼓動を確かめる。ああ、鼓動がずっと早くなっている。

明日もこのレジュメを持って違う会社を回る。「君ほどの才能があれば、どこの会社でもやっていけるよ」この言葉は「君を採用する」と同じではない。「一緒に働こう」と自分から言える人間はごくわずかなのだ。面接官の瞳に過ぎる冷徹な光は、じっと私を値踏みしている。この瞳の前でおびえる人間はダメだ。うちの組織には入れられない。入れてはいけない。彼の心の声が瞳の中でゆっくりと瞬いている。

私は弱い、運のない人間だ。世の中にはまだこんな苦労をせずに世を渡っている人間だって大勢いるのに、こんなレジュメを書かずとも、自分の無力さを自分自身の手で確かめずとも生きている人間だって大勢いるのに、私はその苦労を友とし世を渡らなければならないのだ。こうして生きている人間が私一人ではないことなど疾うの昔に承知だが、そのことはこの押しつぶされた心臓の慰めにはならない。ペンを机に置いて、ゆっくり息を吸い込む。こめかみから流れた汗が頬の涙と一緒になって私の手元に落ちる。ぱたぱたという乾いた音に自分の涙の潤いがいっそう引き立って、私の胸に迫ってくる。私は弱い、運のない人間だ。ああ、鼓動がずっと早くなっている。私は自分の胸に手を当てて、先ほどよりずっと深く深く息を吸い込んだ。そうだ。自分のこの胸を、心という名の心臓を握っているのは自分の手ではないだろうか。私は自分で自分自身を握りつぶそうとしているのではないか。

自分のたどってきた道の険しさを他人に誇るほど私は暗愚ではないが、私にとって無駄となった苦労は一つとなかった。道に転がる石や枯れ木を取り除くことに時間が多くかかったが、それは道を引き返してくるときに役に立った。私は誰よりも早く元の道に戻り、過ちを犯した分水嶺に引き返せるのだ。もう一度苦労をしても、それは新しい苦労だ。同じ痛みを何度も繰り返してきたのではない。同じ痛みを繰り返しているのは、ただ自分の胸のうちだけだ。目の前にはすでに新しい道が開けているのに、自分の胸のうちだけで苦労を苦しみを痛みを追体験し続けていた。

レジュメにはこう書こう。「困難に耐え、任務を全うします」「経験を糧にすることができま
「困難に打ち勝つ」とは書かなかった。これからも書かないようにしよう。自分を必要以上に追い込んではだめだ。元の道に戻る導すら見失う。私は走ることはできないが、振り返りながらゆっくり歩き続けることはできる。自分を握りつぶさない限り、私はずっと一歩を踏み出していける。