陽だまりの子

Child In The Sun

五色の山 - 南の赤い山 第4話

 神主の袖を握って、お庄屋は言った。
「これ以上の生贄は無理だ」
部屋には病人の饐えた体臭と、薬包紙の乾いた匂いが立ち込めている。病人は頻りに咳き込んだ。黄色く濁った目は、頻りに瞬きを繰り返す。
「お前はこの生贄が何故始まったか知っているか」
知っている、と神主はお庄屋の顔色に苦々しく答えた。
「昔のことだ。天を翔る雷神が雲の切れ間から豊潤なこの地に目を留め、我が物にせんとしたが、村人はちはやぶる雷神に恐れをなしそれを拒んだ。それに怒った雷神は激しい雨を降らせ、その風と雷で村人から全てを奪った。困窮した村人は山神に助けを求めたのだ。雷神からこの村を救って下されたなら、それに感謝し毎年祭りをとり行いましょうと。しかし、山神はそれに満足せず、閏年に娘を一人ずつ差し出せと言った」
「どうして人を救うはずの神が、生贄を求めるのだ」
お庄屋の面が火を吹かんばかりに赤く燃え立つ。
「今までこの村が何人娘を捧げてきたと思う。その数は百を下るまい。そのような数の人を殺してきた山神を俺は信じない」
「山神は水を豊かな土をこの土地に恵んでくださる。それを糧として我々は今まで永らえてきた。その恵みに感謝し、毎年祭りをとり行い、閏年には娘を一人生贄に出してきた」
「人殺しに変わりはあるまい」
何を言う、と神主は優しく言い病人の手を解き布団の中に差し入れた。
「お主は病人だ。今の言葉も熱に浮かされてのものだ。体が本当になれば、自ずから分かるよ」
「分かってたまるか」
お庄屋は身を起こすと、両手をばたばたさせ、叫んだ。
「人殺しだ」
それから三日後にお庄屋は死んだ。

五色の山 - 南の赤い山 第3話

 お縫は、手を引かれ笑いながらやってきた。その後ろから白い馬が牽かれてくる。
 境内には村の若衆が満ち満ちている。言葉を発するものは誰もいない。降りかかる灰を払おうともせず、熱っぽい眼差しで正殿をじっと見つめている。
 正殿の中では、数人の巫女と神主によって最後の祓いが行われている。髪を捌いて、服を着せ替られたお縫は覚束ない足元を支えられて、白い馬に乗せられる。気違いとは言え縛めるのはあまりに酷い、と火口まではそのまま連れて行くことにした。
 最前、お縫の母は泣き叫んで神主の袖に取り縋った。
「お前様は父を亡くし、正気を失うたこの子から命まで奪おうというのか」
「村のためじゃ。村を救うには、こうするしか」
「人でなし!」
母の手には神主の片袖が残った。
 ぽくぽくと軽い音を立てて馬の蹄は地を弾く。灰に曇る空は暗い。娘を見送るある者は歓喜に手を打ち振り、ある者は声を上げて歌う。それに答えて娘は馬上から笑いかける。
 道など疾うに消えた山の斜面を、少しでも歩き易い場所を探しながら、じりじりと行列は山を這い登る。立ち上る水蒸気、それに灰が混じった熱風が若衆の面に吹きつける。地熱に足の裏は焼けるようだ。溶岩流の流れた後は燃え残った樹木と、その後に降った雨粒の跡が痘痕のように残っている。

五色の山 - 南の赤い山 第2話

「今年も閏年だ」
と、誰かがぽつりと言った。
「そうだ、今しかない」
「山神を静めるのは、今このとき」
「夏至は今宵だ」
しかしな、と神主が口を挟んだ。
「お庄屋は、この生贄に臨終の間際まで異を唱えておった。このような風習は一刻も早く止めるべきだとな。そして、自分の息子にもこの生贄のことは秘して語らなんだ」
「その結果がこれだ!」
がたん、と誰かが立ち上がる。いつの間にか日は暮れ、影ばかりになった声が異口同音に木霊する。冷たい檜の床にもどこから入ったのか、薄い色をした灰が微かに黴のように積もっている。
「ある家は殺さずともよい子供を水に沈め」
「ある家は代官の取立てを苦にして心中した」
「あの家の娘は灰で胸を悪くした」
小僧が、蝋燭に火を点す。
「生贄さえ捧げればこの村は元に戻る。山は静かになり、田畑は豊かに実る」
「閏年に娘一人、それぐらいの贄で済むならば却って有難いほどだ」
「緑の山を田畑を、赤や黄色の鮮やかな木の実を」
「風にそよぐ黄金の稲穂を」
「もう幾年、我々は見ないのか」
「生贄を!」
「そうだ、生贄を!」
 神主は変わらぬ渋い顔。
「しかし、妙齢の娘と言っても……」
何、簡単さ。せせら笑って一人が言う。蝋燭の明かりで、その歪んだ面が朧に見える。声の方向を一斉に注視する一同。
「山が毎年火の粉と灰を降らせ、このように民を苦しめているのは、ひとえにこの十二年、生贄を捧げなかったためだ。ひいては十二年前のお庄屋の遺言のためだ」
そうだ! 誰かの声。ここに女はいない。「しかし、お庄屋は死んだ。ならばお庄屋の家の者に──あの一人娘にその罪を贖ってもらえばいい」
「なんと」
「そりゃあいい」
「気違いなら惜しくないさ」
 お庄屋の遺された一人娘、お縫は四年前の熱病が元で正気を失った。花を摘み、花を毟り、同じ唄を唄って、日を送っている。

五色の山 - 南の赤い山 第1話

 ちらちらと灰色の破片が空から落ちてくる度に、農夫たちは溜息をつく。
「またじゃ、今年もまた駄目じゃ」
「いっそのこと、この地を捨てて……」
「何を言う、先祖伝来のこの地を捨てると言うのか」
みるみるうちに日は陰り、姿を消す。
「そうじゃ、この灰も一月もすれば止む」
「だが、これで今年の作物は終わりだ。そして、また灰は降る。今年で終わり、今年で終わりと言いながら何年経ったのだ。俺はもう我慢できん」
彼らの視線の先には、赤く熾え盛る山。
 眇めの神主はそれぞれの訴えに一々頷き、すぅ、と息を吸い込んだ。
「山の火を鎮める手はある」
血相を変えて詰め寄る村の者を制して、神主は続ける。
「あの山が火を噴くようになったのは、ここ十年程のことだ」
 この村の南に屹立する、あの山も昔はごく穏やかな山だった。濃紺の葉を絶やさぬ照葉樹が山麓を埋め尽くし、はるか上空を飛ぶ鳥の声が鈴のように葉の間から零れ落ちた。季節の木の実、禽獣、薪、村人は様々な物を求めて山に入る。山から流れる清流は途切れることなく、広い田畑を潤し、豊かな恵みを齎した。人は山に感謝し、毎年の祭りを欠かさなかった。
「祭りならまだやっている!」
違うのじゃ、と神主は換骨の突き出た頬を撫ぜると、口をすぼめて茶を啜った。まだ、井戸水は無事だった。
「この神社の秘伝じゃ」
 閏の年の夏至の夜、妙齢の娘を一人選んで山神に差し出す。泣き叫ぶ娘を薬で眠らせ、白馬に縛りつけ、生きたまま火口に投げ落とす。火口の底には、煮え滾る溶岩の淵があり、その畔で山神が猛る自らをその娘で鎮めるのだ。
「娘は美しければ美しいほどいい」
唇の立てるぬちゃぬちゃという音が、言葉を遮る。
「この事はわしとお庄屋しか知らぬこと。十二年前、お庄屋が死んでからは当の娘の都合がつかず、生贄は絶えておったのだ」
誰かがごくり、と生唾を飲む音が聞こえる。
「さすれば、また若い娘を捧げればこの灰も止むと言うのか」
「じゃろうな」

五色の山 - 東の青い山 第5話

 丑三つを過ぎてまだ幾らも経たぬうちに、父と娘の二人は起き出した。父が朝の行があると娘を起こしたのである。娘は井戸で顔を洗うと、身支度も早々に父の後について歩き出した。父は杖一本ながら、慣れた道なのか、険しい道をものともせず、すたすた歩き続ける。星の光にともすれば見失いそうな父の背中に、娘は怯え、必死に後を追った。やがて石段が始まり、娘は風に磯の香りを覚えてふと思い出した。この青山の裏は海に続いていると家の主人が言っていた。
 ごくごく小さな湾が、眼下に広がっている。何人かの行者が、その湾の淵を這うようにして、打ち寄せられた海草を拾い集めていた。その中に一際小さい影がある。
「瑠璃、見えるか」
「子供がいる……」
娘は感慨深げに呟いた。
「そう、おまえより五つ下になる。おまえの弟だよ」
娘は弾かれたように父を振り返る。
「この地に辿り着き、私もあの中に混じり行に明け暮れていた。しかし、幾ら行を積もうともこの目は癒えず、かえって悪くなるばかり。絶望して行をやめ、一時山から下りたことがある」
娘は目を凝らし、その小さい影を追う。小さい影は飛び跳ねるように波間を渡り、手に持つ海草を振り回している。白み始めた空におぼろげに浮かぶ月の光と、水平線の向こうから漏れ出した日の光が拮抗して、漆黒の海の上で星が瞬く。
「そのとき、知り合ったのがあの子の母親だ。タエ、と言った。弱い視力で慣れない畑仕事に挑む私をタエはよく助けてくれた。タエと夫婦となるのにそう時間はかからなかった」
見えぬ波が湾に寄せる音が聞こえる。
「そうして生まれたのがあの子だ。見えるか、瑠璃。あの子の姿がお前には見えるか」
瑠璃は一層目を凝らす。そうして声にならぬ叫びを上げた。
「傴僂!」
そう、と父は頷く。
「あの子の目に異常があるかどうか、それは私にはわからない。私は彼の目を見ることができないし、彼は言葉を持たない。周りの者に訊けば教えてくれるのだろうが、私はそれを知りたくない」
父は身震いを一つして続ける。
「恐ろしいことだ。この体に流れる血の病は、遂にあの子の骨にまで達したのだ!」
「しかし、父上」
娘はその父の手を掴む。
「あの子が傴僂であるのは、母親の遺伝ではありませんか。うちの家系に傴僂はおりませぬ」
「いいや、いいや。タエの血に非はない。私はタエと契りを結ぶ前、タエに問い質したのだ。タエの家系に異常はないかと……、タエはないと言った。実際、タエの血に連なる者に、あの村の者にも異常な者は一人もいない。私もそれならと、タエと夫婦になったのだ」
「突然ということもありましょう。あの子がお腹の中にいるときに、その母親の身に何かあったのかもしれませぬ。父上一人の責ではありませぬ」
「違う……」
自嘲気味に父は笑う。
「言ったろう、あの子は言葉を持たないと。言葉を知らず、あの子の狂う様はちょうど私の父に瓜二つだ」
「おじいさまのこと?」
「そうだ、お前には祖父に当たる。血の存続のために、家の者は童子よりもまだあどけない父を母に娶わせたのだ。母が身篭ると、父は用済み、そのまま座敷牢に入れられそこで死んだ。私が十のときだ」
「知らなかった」
娘の覚えている祖母の顔に表情はない。心無い、体ばかり大人の祖父に犯され、子供が生まれた後はその愛情を得ることすら叶わず、一人家で子供を育てることのみに没頭してきた祖母。その心中は如何ばかりであったろう。
「あの子が時折発する甲高い声、夏の鶯のような声、血を吐くような叫び、ああ、あの子は私の血を受けたのだ」
  タエは生まれたその子が傴僂であるのを知ると、血が上り、一月を待たず産褥の床を離れることなく死んだ。
「私はその恐ろしさに再び仏にすがろうとこの寺に入った。自分の病一つが癒えることばかりを願っていたその浅はかさを悔い、あの子と私の呪われた血が清められ、いつの世か浄土に生まれ変わることを得んと」
父の手にある数珠は手垢に塗れ、根付の琥珀は失われている。
 白濁した父の瞳から涙が落ちる。
「わらわの往生は願っては下さらぬのか」
「お前は強い子だ。こうして父を追って生家から遠く離れたこの寺まで一人で来る強い子だ。お前なら一人で行き、一人で死ぬことができるだろう。だが、あの子は一人では生きていけぬばかりか、死ぬことすら知らぬままに死んでいくのだ」
「わらわは、わらわの母上は?」
「下山することはできぬ。生ある限り、この寺であの子の面倒を見ることが私に科せられた新たな業なのだよ」
 湾から行者たちが上がってくる。各々仏に供える海草を手に持ち、慌しく二人の隣を過ぎる。傴僂も左手に海草を持ち、その列の中にある。父の姿を認めると、傴僂は笑って走り寄った。傴僂の持つ海草から雫が滴り落ちる。潮の香りが強く娘の鼻を打った。
「日が昇る」
 海にせり出した崖の突端に立ち、三人は真正面より昇る朝日に手を合わせた。父の読む経の声は、海から吹き上げる潮風にも途切れることなく続き、その間に闇に磨き上げられた海の面に光が戻り、波頭が現れる。遥か彼方より打ち寄せる波は、崖の下、突き出した岩に砕け、白い澱を残す。
 傴僂の黄色い声、朝日が全身を現す。滴るばかりの蒸気が海から立ち上り、雲が赤く輝く。父は経を読み終えると、傴僂を抱き上げ、その頭を撫でた。娘は一人、杖をつき踵を返す。その娘の背中で、また傴僂の黄色い声が上がり、父の何か呟く声が聞こえた。娘は霞む両眼から溢れる涙を拭い、最後の別れを告げんと振り返った。
 そこに傴僂の影はない。
「瑠璃、家に戻るのか」
その気配に父が呼ぶ。娘はゆっくり首を振ると、父の傍に戻り、震える足で岬の先に立った。眼下の岩には、血に塗れた傴僂の死体。
「あれで生きていれば、それこそ化物だろう」
娘は低い声でそう言うと、二度三度と瞬きをして、眩しい朝日の光に目を細めた。海からの風に笠がばたばたと揺れると、ぷつりと顎紐が切れ、ふわりと笠が舞い上がる。娘の黒髪がそれに続いて海に舞った。
 二人の命を飲み込んで、朝の海は騒ぎ始める。父はまた手を合わせ、経を唱える。東の空より芽生えた光が、音を立て海の上を駆け抜け、西の空へ走る。雲はない。
 今より遠く戦国の世、国主に刃向かうこの寺は焼き討ちに遭い、秘仏とされた薬師如来の立像もそのときに失われている。

五色の山 - 東の青い山 第4話

 哀れなるかな悲しむべきかな、父の目は既に潰れていた。
「ああ、如来の秘薬をもってしても目の病は癒えませんでしたか」
娘の声が絶望に曇る。父は自分の袂を握る娘の手を辿り、その柔らかな頬に触れるとさもいとおしそうに娘の顔を撫でた。
「この寺に伝わる秘仏、その薬師如来の薬壺のうちにはどんな病でもたちどころに癒える秘薬があると……」
父の袂を握っていた娘の手がだらりと下がる。
「娘よ、この寺の薬師如来に元より薬壺はないのだ」
父は静かに続ける。
「いつごろからか、この寺の薬師に宿る霊力に頼みを寄せてこの寺を訪れる者が多くいた。しかし、その手に薬壺のないことに知ると、ある者は落胆し、ある者は失望の余り正気を失い、ある者はその場で命を絶った。もう遠い昔のことだ。和尚は不幸ばかりを呼ぶこの薬師如来を秘仏とし、ただその伝説のみを残した。わしのように未だ望みを寄せてこの寺を訪う者は多い。だが、一人として病の癒えた者はいない」
娘は失望の色を隠せず、呆然とそこに立ち尽くす。見えぬ目でもそれに気づいたのか、父が言葉を続ける。
「母上は息災か」
「大きな病もなく、お元気でいらっしゃる。ただ、お父上にお会いできないことを嘆いておられたが。家に戻るおつもりはないのか。この寺にはその目を癒す手立てはないのだ。下山して母上の傍にいてやることはできますまいか」
嘘をついた。
「母上は本当に息災なのか」
父は繰り返し訊く。
「息災でいらっしゃる」
娘も繰り返す。
「それならよい」
 二人はその夜、堂内に二人と枕を並べて床に就いた。ともについてきた主人は、親子水入らずの夜に気を利かせて、他の堂に泊まった。

五色の山 - 東の青い山 第3話

 案の定、娘はともに行こうという主人の申し出を固く断った。
「昨日は思いもかけぬ丁重な接待を受け、これ以上のお世話はかけられませぬ。青山寺にはわらわ一人で参ります」
「どうしても断るというのなら、同道ということではどうじゃな。わしも久しくあの寺にお参りしておらぬ。これを機会に夫婦二人の無病息災を祈願してこよう。それならよかろう。娘御、同道仕ろう」
それなら、と娘は頷いた。身をまとう白装束は昨晩のうちに爽やかに乾き、綻びはきれいに繕われている。娘は弁当を受け取り、重ね重ね嫗に礼を言う。
「帰りはまたこの屋にお寄りなされ。婆がまた雑炊を煮てあげましょうよ」
娘と主人が出立すると、嫗は葛篭から自分の娘時代の着物を取り出し、繕い始めた。あの娘も自分の目が癒えて、父親が家に戻ればもう巡礼を続けることもあるまい。ここから懐かしい故郷の家へ帰ればよいのだ。
 一方、主人と娘は次第に激しさを増す日差しと競うように歩を早めた。次第に迫る青山の巨大な影に、娘は今更ながら目を見張る。
「寺はどこ。伽藍のうち、もう、塔ばかりは見えてもよいはずですが」
「ああ、寺は青山のちょうど裏にある。そして、この山の向こうはすぐ海につながっておってな。山がそのまま海の上にせり出して岬となっておるのじゃ。青山寺はその岬のちょうど根元にある。百人以上のお坊様、諸国より集った多くの行者様が日夜修行に励んでいらっしゃる。きっとそのうちに娘御のお父上もいらっしゃるじゃろ」
ふと、表情が曇る娘に気を払い、主人は昼飯にしようと言った。娘はちょっと笠を上げて、日の高さを確かめる。ちょうど日は二人の真上にあった。
 二人は木陰に憩い、弁当を広げる。
「梅干は好きだ」
娘は握り飯を頬張る。
「代々、我が家の血脈に連なる者は光を失ってきた」
娘は口元についた飯粒を取ると雀に投げてやる。
「他家から嫁いできたわらわの母上はこの病とは無縁だが、わらわの叔父上叔母上、お祖母様は既に光を失い久しく経つ。わらわの生まれるより先にお亡くなりになったお祖父様も早くから目が見えなかったと聞く」
娘は次の握り飯を頬張る。主人も、たくあんを齧りながら雀に目をやる。
「しかし、娘御。盲いた者は多くおる。そなた一人の不幸ではない。目がなくとも耳がある、この手もある。口も利ける。それでどうして不満なのだ」
「御主人、それは手のない者に足があると言うのと同じことだ」
娘は笑う。
「五体満足な者だけが言える言葉だ」
「すまなかったな」
「言うとて詮無きこと。お気になさるな」
娘は裾を払って立ち上がる。
 山や川はいつもそこにあっても一瞬たりとて同じ姿であることはなく、草木は日々その色を変える。生を受け死に至るまで、その一瞬一瞬の全て脳裏に刻むことはできないが、盲いた者は、愛しい者の、今この場にともにある影すら認められぬのだ。
「お父上に、成長したそなたの姿を見てもらえればよいな」
「そうだ」
娘は笑って杖を取り上げ、二人は連れ立って歩き出した。
 険しい山道を踏み越えて、二人はひたすら寺を目指す。幸い、鬱蒼と茂る木立に激しい日差しからは守られていたが、陰鬱な湿度に二人は辟易した。滝のように滴る汗に、手拭いは絞れるほど。所々に湧き出る泉にその喉を潤し、草鞋の紐を結び直して二人はまた上り始める。
 どれほどの時間が過ぎたろうか。日は西に傾き、光は枝の間からわずかにこぼれるのみ。険路を娘と主人の二人は慎重に歩を選び、なおも寺を目指す。玉砂利が敷かれた道を過ぎ、鳥居をくぐり、石段を登る。年月に苔生した石燈籠に、何本かの蝋燭が心もとなげに揺れている。先程の行者たちが点したものらしい。二人は顔を見合わせ、足を速めた。額上の山門。
 堂内に入ると、多くの行者が慌しく今晩の行の用意をしていた。まだ年端も行かない娘と年老いた男という異様な取り合わせに目を見張ったが、娘の父を探しているという言葉に、一人の行者がこの寺の和尚を呼びに行った。二人は草鞋も解かず、じっと土間に立って、堂内を見つめている。ここにも薬師如来の仏像が置かれている。須弥壇の上のその仏像は、丈は精々三尺ちょっとと言ったところであるが、豊かな衣文の表現と穏やかな表情が細かに表され、柔らかな身体の稜線が金銅の冷たい体を温かく見せている。左手には小さな薬壺。娘は土間からそっと手を合わせた。
行者の一人に連れられて、この寺の和尚がやってくる。
「父を尋ねてきた娘と言うのはそなたか」
老僧は豊かな髭を右手でしごきながら、娘を見下ろした。
「はい、瑠璃と申します。父の名は……」
皆まで言う必要はなかった。老僧が手で制したからだ。
「僧籍に入ると言うことは、俗世との関わりを立ち、ひたすら仏道に精進することを指す。そなたの父に当たる男は確かにこの寺にいるが、その男がそなたに会いたいと思うかの。第一、病の治癒を願ってこの寺に入り、その願がまだ叶わぬというに」
娘はじっと頭を垂れてその言葉を聞いていたが、迫る暗闇に押され、きっと面を上げた。
「父が会いたくないと言うのなら、わらわはこのまま山を降りましょう。そして二度と訪れませぬ。しかし、父に娘が来たとそれだけは伝えてくれませぬか」
真摯な娘の申し出に、老僧は幾分躊躇っていたようだが、遂に頷くと再び伽藍のうちにその姿を消した。
 長い時間が過ぎた。娘と主人の二人は堂内に上がり、接待の米を煮て雑炊を啜った。娘は桶に水を汲んでくると、部屋の隅で諸肌脱いで体を拭き始める。父に会う前に少しでもきれいにしておこうという心積もりらしい。今日一日の行脚で、洗いざらしの脚伴も手甲も埃に汚れ、どんなに払ってもそれは落ちなかった。娘は溜息をつくと、元通り着物をつける。その間に主人は鍋と皿を洗いに外に出ていた。
 戸の向こう、足音が聞こえる。堂内には娘一人。薬師の前に上げられた灯明のわずかな光に目を凝らし、土間の向こう、閉ざされた戸を見つめる。がらがら。ぎこちない音を立てて、その戸の間から一つの影が現れた。わずかな灯明の光では殆どその姿を認められぬ。
「瑠璃はいるか」
こつこつ、と手の杖で土間の終わりを確かめて、その僧は下駄を脱ぎ堂内に上がってくる。次第にその容貌が明らかになる。広い額の下には深く落ち窪んだ瞼があり、その間から青みを帯びた瞳が見える。鼻梁は途中で少し折れている。薄い唇、痩せた頬、全てに艱難の色が満ちている。若い頃は大変な美男であったろう。日に焼けた裸の頭皮に手を乗せると、見えない瞳を見張って彼は自分の娘を見た。幾度か唇が震え、その隙間から言葉が発せられる。柔らかいその声は、低く、だが確かに娘の耳を打った。
「瑠璃か」
「父上か」
懐かしい声。娘は飛び上がり、父に走り寄った。