陽だまりの子

Child In The Sun

五色の山 - 東の青い山 第5話

 丑三つを過ぎてまだ幾らも経たぬうちに、父と娘の二人は起き出した。父が朝の行があると娘を起こしたのである。娘は井戸で顔を洗うと、身支度も早々に父の後について歩き出した。父は杖一本ながら、慣れた道なのか、険しい道をものともせず、すたすた歩き続ける。星の光にともすれば見失いそうな父の背中に、娘は怯え、必死に後を追った。やがて石段が始まり、娘は風に磯の香りを覚えてふと思い出した。この青山の裏は海に続いていると家の主人が言っていた。
 ごくごく小さな湾が、眼下に広がっている。何人かの行者が、その湾の淵を這うようにして、打ち寄せられた海草を拾い集めていた。その中に一際小さい影がある。
「瑠璃、見えるか」
「子供がいる……」
娘は感慨深げに呟いた。
「そう、おまえより五つ下になる。おまえの弟だよ」
娘は弾かれたように父を振り返る。
「この地に辿り着き、私もあの中に混じり行に明け暮れていた。しかし、幾ら行を積もうともこの目は癒えず、かえって悪くなるばかり。絶望して行をやめ、一時山から下りたことがある」
娘は目を凝らし、その小さい影を追う。小さい影は飛び跳ねるように波間を渡り、手に持つ海草を振り回している。白み始めた空におぼろげに浮かぶ月の光と、水平線の向こうから漏れ出した日の光が拮抗して、漆黒の海の上で星が瞬く。
「そのとき、知り合ったのがあの子の母親だ。タエ、と言った。弱い視力で慣れない畑仕事に挑む私をタエはよく助けてくれた。タエと夫婦となるのにそう時間はかからなかった」
見えぬ波が湾に寄せる音が聞こえる。
「そうして生まれたのがあの子だ。見えるか、瑠璃。あの子の姿がお前には見えるか」
瑠璃は一層目を凝らす。そうして声にならぬ叫びを上げた。
「傴僂!」
そう、と父は頷く。
「あの子の目に異常があるかどうか、それは私にはわからない。私は彼の目を見ることができないし、彼は言葉を持たない。周りの者に訊けば教えてくれるのだろうが、私はそれを知りたくない」
父は身震いを一つして続ける。
「恐ろしいことだ。この体に流れる血の病は、遂にあの子の骨にまで達したのだ!」
「しかし、父上」
娘はその父の手を掴む。
「あの子が傴僂であるのは、母親の遺伝ではありませんか。うちの家系に傴僂はおりませぬ」
「いいや、いいや。タエの血に非はない。私はタエと契りを結ぶ前、タエに問い質したのだ。タエの家系に異常はないかと……、タエはないと言った。実際、タエの血に連なる者に、あの村の者にも異常な者は一人もいない。私もそれならと、タエと夫婦になったのだ」
「突然ということもありましょう。あの子がお腹の中にいるときに、その母親の身に何かあったのかもしれませぬ。父上一人の責ではありませぬ」
「違う……」
自嘲気味に父は笑う。
「言ったろう、あの子は言葉を持たないと。言葉を知らず、あの子の狂う様はちょうど私の父に瓜二つだ」
「おじいさまのこと?」
「そうだ、お前には祖父に当たる。血の存続のために、家の者は童子よりもまだあどけない父を母に娶わせたのだ。母が身篭ると、父は用済み、そのまま座敷牢に入れられそこで死んだ。私が十のときだ」
「知らなかった」
娘の覚えている祖母の顔に表情はない。心無い、体ばかり大人の祖父に犯され、子供が生まれた後はその愛情を得ることすら叶わず、一人家で子供を育てることのみに没頭してきた祖母。その心中は如何ばかりであったろう。
「あの子が時折発する甲高い声、夏の鶯のような声、血を吐くような叫び、ああ、あの子は私の血を受けたのだ」
  タエは生まれたその子が傴僂であるのを知ると、血が上り、一月を待たず産褥の床を離れることなく死んだ。
「私はその恐ろしさに再び仏にすがろうとこの寺に入った。自分の病一つが癒えることばかりを願っていたその浅はかさを悔い、あの子と私の呪われた血が清められ、いつの世か浄土に生まれ変わることを得んと」
父の手にある数珠は手垢に塗れ、根付の琥珀は失われている。
 白濁した父の瞳から涙が落ちる。
「わらわの往生は願っては下さらぬのか」
「お前は強い子だ。こうして父を追って生家から遠く離れたこの寺まで一人で来る強い子だ。お前なら一人で行き、一人で死ぬことができるだろう。だが、あの子は一人では生きていけぬばかりか、死ぬことすら知らぬままに死んでいくのだ」
「わらわは、わらわの母上は?」
「下山することはできぬ。生ある限り、この寺であの子の面倒を見ることが私に科せられた新たな業なのだよ」
 湾から行者たちが上がってくる。各々仏に供える海草を手に持ち、慌しく二人の隣を過ぎる。傴僂も左手に海草を持ち、その列の中にある。父の姿を認めると、傴僂は笑って走り寄った。傴僂の持つ海草から雫が滴り落ちる。潮の香りが強く娘の鼻を打った。
「日が昇る」
 海にせり出した崖の突端に立ち、三人は真正面より昇る朝日に手を合わせた。父の読む経の声は、海から吹き上げる潮風にも途切れることなく続き、その間に闇に磨き上げられた海の面に光が戻り、波頭が現れる。遥か彼方より打ち寄せる波は、崖の下、突き出した岩に砕け、白い澱を残す。
 傴僂の黄色い声、朝日が全身を現す。滴るばかりの蒸気が海から立ち上り、雲が赤く輝く。父は経を読み終えると、傴僂を抱き上げ、その頭を撫でた。娘は一人、杖をつき踵を返す。その娘の背中で、また傴僂の黄色い声が上がり、父の何か呟く声が聞こえた。娘は霞む両眼から溢れる涙を拭い、最後の別れを告げんと振り返った。
 そこに傴僂の影はない。
「瑠璃、家に戻るのか」
その気配に父が呼ぶ。娘はゆっくり首を振ると、父の傍に戻り、震える足で岬の先に立った。眼下の岩には、血に塗れた傴僂の死体。
「あれで生きていれば、それこそ化物だろう」
娘は低い声でそう言うと、二度三度と瞬きをして、眩しい朝日の光に目を細めた。海からの風に笠がばたばたと揺れると、ぷつりと顎紐が切れ、ふわりと笠が舞い上がる。娘の黒髪がそれに続いて海に舞った。
 二人の命を飲み込んで、朝の海は騒ぎ始める。父はまた手を合わせ、経を唱える。東の空より芽生えた光が、音を立て海の上を駆け抜け、西の空へ走る。雲はない。
 今より遠く戦国の世、国主に刃向かうこの寺は焼き討ちに遭い、秘仏とされた薬師如来の立像もそのときに失われている。