陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第7話

 どうしても思い出せない記憶を探ろうと、遼子は自分の拾われた水族館に出かけた。土曜日の水族館は親子連ればかり、カップルは存外に少ない。何組かの睦まじい男女は若く、大学生だろう。遼子は自分のハンドバッグを両手で握って足早に館内を過ぎる。熱帯魚の水槽も見ない、コーラルの水槽も過ぎる。海草だけ集めた展示もあったが、色彩が眩しすぎて興を削がれた。
 人生は二度必要ないのかもしれない。宮崎との問答を心中で繰り返しながら遼子は真っ直ぐペンギンの檻に向かった。一度きりの人生で済む人間の方がはるかに多いはずだ。一度きりの人生で有体の幸せは一通り経験して墓に入る人間がほとんどのはずだ。
「お墓……」
遼子は小さく声に出して繰り返した。
「お墓、そうね、お墓に入れば」
皆、白い骨だ。古い歌を思い出して遼子はつと口ずさんだ。

ねえ、私が死んでも放っておいて
埋めたりしないで
この身の朽ちるまま、骨のままに
アルコール漬けにしちゃってよ
お酒のビンの中で、私の骨は今と変わらず
楽しく生きて、可愛らしく笑ってるでしょうよ

「それなのに、私は」
巡り会わせが悪いのだろうか。墓に入って骨になれば、いいや逆だ、骨になって墓に入れば何もかも満たされた気持ちで人間は死後の世界に向かうのだろうか。
「あれ、何だろう」
両手を握り締めて額に当てる。ハンドバッグの金具がイヤリングと触れ合って不規則な音を立てた。
「今、何か思い出しそうだったんだけど」
自分の思考をテープを巻き戻すように逆再生で反復する。死後の世界に向かう。人間は。何もかも満たされた気持ちで。骨になって墓に入れば。逆だ。墓に入って骨になれば。
 いつの間にかペンギンの檻の前にいた。
「忘れたいことと思い出したいことが近くにあれば、両方思い出さないようになるのかしら」
「いい歌ね」
不意に声がした。自分の目の前から。遼子は目を凝らす。自分の目の前にはペンギンの檻しかない。ペンギンは皇帝ペンギンフンボルトペンギン。順番に並んでどぼんどぼんと水に飛び込んでゆく。
「誰」
「知ってるくせに知らないふりをするのはよくないことよ。思い出せないなら別だけど」
目の前には人魚がいた。あの日と同じ美しい鱗の色。今日はよく晴れているから鱗に日光が差し掛かっていっそう眩しく見えた。
「気づかれるわ」
「誰もわからないわよ。私は私をそれと認識する人にしか見えないから」
「そうでない人にはどう見えるの?」
「さあね。イルカかアシカか」
人魚は引き付けを起こした人間のようにけたたましく身をのけぞらせて笑うとこう付け足した。
「ゴミ袋にでも見えるんでしょうよ」
遼子ははっとして口を押さえた。港に浮かぶ人魚がゴミ袋と見間違えられたということは人間しか知らないはずだ。どうして。
「あなた、知っているの?」
「私は何でも知っているのよ。人の運命でも」
「運命?」
「あなた、まだ思い出さないのね。こうまですっかり忘れてしまうと今度は却って不便なものね」
「何を話しているの?」
遼子は腹立ちを抑え切れずに、ぐっと鉄柵をつかんで身を前に乗り出した。
「謎かけはおよしなさいよ」
人魚はするすると泳いで鉄柵の傍に寄ってくると、水から自分の手を引き上げて遼子に差し出した。
「この手に見覚えはない?」
遼子も手を差し伸べる。人魚は伸びをして遼子の指先に触れた。先ほどまで水の中にあったはずの手は今は不思議と乾いていて、冷たくもなく温かくもなく、存在がそこにあることは知れるが、触れているという実感はなかった。
「私の手を握って」
そうすれば思い出すわ。人魚の言葉のままに遼子は人魚の手を握る。華奢な手だ。夏の日に焼けた名残がまだ残る私の手とは違い、その肌は蝋のように白い。
「あなたは私の手を握っていたのよ」
「それはいつ?」
「あなたがこのペンギンの檻の前に来た日よ」
「私をここまで連れてきたのはあなた?」
「そうよ。あなたはここに捨てられていたのではないわ。私がここに連れてきたのよ」