美しい果実
私は旅をしている。美しい果実を探して。幼いころ、寝物語に聞いた話。その果実を食せば、その人間には人外の力が備わるという。その果実を食し力を手に入れた者は、自らの望みをかなえたという。
「あの木さ」
子どもが指差したのは低い落葉樹。ほとんど葉が落ちて、むきだしの枝が風に揺らいでいた。
私はついにたどりついた。美しい果実の地に。伝説通り、いくつもの険しい山を越えた先にある深い谷、その底にある小さな村。そこには美しい果実の番人たちが住んでいる。
私の案内をするのは子ども。子どもは金銀でも宝石でもなく、食べ物をほしがった。私は荷物の中にあったパンとチーズをあるだけ渡した。子どもは明るい顔をして私の手を引いて、谷の一角に連れていった。木々の梢がさやさやと鳴って、異邦人の訪れを告げる。私のことだ。
「実は?実はどこにある?」
「あそこにある。最後のひとつだ」
子どもの指先に、私は小さな丸い果実を認めた。子どもが乱暴に木を揺すると、果実は枝から離れ、ぽとんと私の目の前に落ちた。美しい果実?ただの果物だ。茶色い果皮、棘こそないが固そうだ。私はそれを取り上げて鼻を近づける。においもない。
「これが、美しい果実か?」
「そうだ。我らの果実だ。我らはそれを食べて生きている」
私は鼻から果実を離して、子どもに目をやった。子どもは、ざんばらの髪の間から私をじっと見つめかえした。
この子どもが美しい果実を食べている。口ぶりから察するに、この果実を糧として生きているのはこの子どもだけではないようだ。私はポケットからハンカチを取り出して、果実を包んだ。最後のひとつだ。この道すがら見た番人の村に炊ぎの煙はなかった……。
「人はなぜ、その果実をほしがるのだ?」
子どもは聞いた。
「それは、これが美しい果実だからだ。お前も知っているだろう。この果実の伝説を。この果実を食し、人外の力を得た人間が何を成し遂げたかを」
「ただの果実だ。我らにはそれ以上の価値はない」
私はつい笑ってしまった。この果実を得るために自分が歩んできた困難な道のりを思い返してだ。私に親兄弟はすでになく、妻は産褥の床を離れる前に死んだ。子どもは、もし生きていれば目の前の番人の子どもと同じぐらいだっただろうか。子どもも、死んだ。
「おかしいと思わないか。四季がめぐればまた実る果実を人はなぜ争って奪いあうのか」
「それは、この美しい果実がもたらす力のためだ」
「力のため?それなら我らにもその力が宿るはずだ」
見ろ、と子どもが私の目の前に突き出した両手は、やせて骨ばっていた。爪は割れ、土が入っている。肌は荒れて、ところどころ血がにじんでいた。果実を守るこの村の番人には法外に高い人頭税が課せられている。生まれたときから自らの生命のために国に借金を負い、死んだ親兄弟を埋める墓場のために更なる税を支払う。国は、村から容赦なく奪った。小麦も大麦も、野菜も、山野で採れる香草さえも。
「食いつなぐので精いっぱいだ。なぜ、我らには他者から奪うだけの力がないのだ。いつもだ、いつも虐げられ奪われる。自分のものを守る力さえない」
飢えて死なぬために、あの果実を食べる。自分の生命の対価を払うために、ただ働くために、あの果実を食べる。美しい果実、それは四季を通して実る数少ない食糧。人を村に呼ぶこの果実だけは税を課されていない。
「だが、それも十分ではない。今年、この村では七人死んだ。冬が来れば疫病がはやり、死人はもっと増えるだろう」
「この村を出るべきだ。なぜ、外に出ない」
「なぜ?この村の外を誰も知らないからだ」
自分以外の人間が死ねば、その分の食糧が分配される。ひとり死ねば、そのひとり分が分配され、自分の取り分が増える。病から飢えから少し遠ざかることができる。
「大きな危険を冒して、村の外に出て、それで死んでしまっては元も子もない。我らは生きていきたいのだ。生きて、少しでも長く生きて」
「お前たちの望みはそれか」
滂沱たる涙が頬を伝い、私の視界を奪っていた。
「生きることが望みか。それなら、それなら美しい果実はお前たちの望みをかなえているのだ。お前たちが飢えて渇いて死なぬよう、ぎりぎりの栄養を与え、生かしているのだ。お前たちの望みはかなえられている。あれは、美しい果実だ」
「違う!」
子どもは自分の両のこぶしをぐっと握って、涙の膜の間から私をにらみつけた。
「生きることが望みなど、あるものか。人間は何かを成し遂げるために生きているのだ。生きて、この手で幸福をつかむために生きているのだ」
生きるために、生きる。道を歩くために道を開拓する。それを否定する子どもは美しかった。私の目の前にいる子どもには、未来があって、それが見えていた。
「お前はそうかもしれない。だが、私は違う。私の望みは生きることだ。何かにすがらなくては生きてゆかれぬ、この弱い自らを戒めるために果実を探していた」
戦乱で親兄弟と死に別れ、永遠を誓った妻には先立たれた。腕の中で形見の赤ん坊は冷たくなった。私は、何のために生きるのかずっと見いだせずにいた。そして、自分は何のためにも生きてはいないこと、自分が生きる目的を見失っていたことを発見した。私は、元来そういう人間だったのだ。生きる目的などなかったのだ。生きて、生きてさえいればよかったのだ。それには何かのよすがが必要で、私はそれを探していた。伝説の美しい果実を探して、私は自死を先延ばしにする言い訳を作っていた。
「そして、今、私は知った。この果実は何も生まぬことを。この果実は人間に特別な力など与えはしないのだ。ただ、生きていく力を与えるだけなのだ」
私はナイフを取り出すと手のひらの中の果実に差し入れた。軽い音を立てて、果実が真ん中からふたつに割れる。
「ご覧よ。種がない」
この果実は殖えない。
この果実が実る木が増えれば、飢えて死ぬ人間の数は減るだろう。だが、この果実はそれを認めない。果実に種はなく、人間がこれを育てることはできない。人は、この果実を食べて、生きて、そして自分で道を歩まねばならないのだ。
「美しい果実の伝説は、腹がふくれて、自分には特別な力があるといい気分で錯覚した人間が、それを果実の力だと吹聴しただけだ」
子どもは黙って私の手の中の果実を見つめていた。
「半分、お食べよ」
私は手の中の果実を子どもに差し出した。子どもは受け取らなかった。
「代価はもらった。その果実はお前のものだ」
そう言うと、子どもは踵を返して自分の村に向かっていった。私は追わなかった。
美しい果実の伝説はまだこの地にあって、果実を求める者が引きも切らない。だが、そこに道案内の村はもうない。村の民すべてが満月の夜、出奔してしまったからだ。朽ちた門だけが村の入り口にある。その門には「一切の希望を捨てよ」と記されている。
月侍童
狩の途中、野営を抜け出した王は宵の月に誘われるように川辺へ赴いた。侍童もつれず、ひとりで。背の高い芒がざわざわと風もなく揺れて、王の訪いを知らせる。
「王様だよ」
「王様だ」
「姿を隠すのだ」
「無礼があってはならぬ」
王は、誰もいない川辺で水を掬い、喉を潤した。そのとき、王は川面に映る月影の中に人がいるのを見出した。小さく、幼い影。人影は足を水に浸し、じっとたたずんでいた。
「迷い子か」
王は声をかけた。影がふりかえる。月光の下で、そのかんばせは梨の花のように青白く光った。
「近くの村の者か」
影は答えない。そのとき、侍従が王を見つけた。
「王よ!おひとりでこのようなところにまで……」
「あの者を召し出せ」
王は手の水を払うと、侍従が差し出す絹で手を拭った。
「水の中の者だ」
幼い者は侍童のひとりとして、王宮に仕えることとなった。
王は酒を歌を愛し、よろこびを愛した。王は執務のあと、きまって酒を飲んだ。属国から朝貢されるめずらしい酒が王の喉を潤すことを待ち望んでいた。侍童はそのとき、酒と杯を盆の上に置き、頭を垂れて王の声を待つ。ひとりひとつずつ。多い日はその侍童が三百も王の前に並んだ。
「今日はその山吹色の壜にしよう」
山吹色の壜を持つ侍童が王の前に進み出る。
「注げ」
王の手に杯を捧げ、王の手の中の杯に酒を注ぐ。侍童の手はわずかにふるえている。
「この酒は何だ」
「優曇華の花咲く国から王に捧げられた菊花のしずくです。重陽の節句に咲く菊の花びらの夜露を集めました」
気がすずしくなる飲み心地に王はいたく満足した。
翌日、夕暮れに王は酒を欲した。王宮に吹く風が冷たく、体をあたためる飲み代がほしかったのだ。
「今日はその桃色の壜にしよう」
桃色の壜を持つ侍童が王の前に進み出る。
「この酒は何だ」
「無花果の花を見る民の国から王に捧げられた桃の花のしずくです。においたつ春の暁に咲く桃の花の朝露を集めました」
春のまろやかな日差しを思わせる飲み心地に王はいたく満足した。
その夜、王は寝室から一人抜け出して王宮の庭を逍遥していた。月は高く、白く輝き、王は美しい宵に花を探していた。菊花のしずく、桃の花のしずく。今日は花がほしい。王は、庭にひとつの影を見つけた。
「何者だ」
王の声に気づくと、その影は身を投げ出し王の前の地べたに額をこすりつけた。
「童のひとりか。面を上げよ」
「滅相もございません。お許しください」
「面を上げよと申しておる」
侍童はおそるおそる顔を上げた。その顔は白く、瞳はおびえて、頬には涙のあとがあった。
「悲しみは嫌いだ」
「ご不興を……」
王はその侍童が月の宵に川辺で拾った幼い者だと気づいた。王は知っていた。
「菊花のしずくと桃の花のしずくはたいそううまかったぞ」
その侍童がそのふたつの壜を捧げていたことを王は知っていた。知っていて、そのふたつの壜を選んだのだ。
「お前も花のようだな」
王は侍童を自分の寝室に連れ帰った。侍童の肌は花のように香り、蜜は大変甘かったので、王は侍童にすっかり満足した。
侍童は女だったので、寵愛を受け、王子を産んだ。王子は玉のように美しく、美を愛する王は王子を愛し、次期の王と定め、大切に養育した。
だが、寵愛を受けた侍童は死んでしまった。王子を産んで数日の後、寝室で首を吊ってむなしくなっているのが見つかった。
王は王子に母は月から来た人間で、王子を産んだ後に月に帰ったのだと知らせた。
成長した王子が母の死を知り、王を殺すのはまた次のお話。