陽だまりの子

Child In The Sun

030. 命

私はなぜ人間に生まれついたのだろう。今、こうして一人の人間として生きている以上、この生を全うすることを考えねばならないのだろうが、病気に罹ってから私はこの人間に生まれついたことについてしばしば考えるようになった。人間でなければ、この病気に罹らなかっただろう。そう思うと、この我が身が無性に憎らしくもなったりするが人間以外の動物にこの病がないとは限らない。人間以外との対話を確立した学者など、まだ誰もおらぬのだし、植物にだってこの病はあるかもしれない。なれば、どの生物に生まれついたって同じことだ。それぞれがそれぞれの病と生に苦しみ、死にゆくばかりなのだから。

私はなぜ今こんなにも苦しいのだろう。私は考える。この病の苦しみというものについて考える。今の自分の苦しみについて考える。今の自分の苦しみは、本当に耐えられないものなのだろうか。そう自問自答すると毎回「そうでもない」という答えが聞こえてくる。「まだ大丈夫だ」とも。ただ、今の自分の苦しみがどこに起因するものなのか、いったいなぜ私はこのような苦しみを味わう羽目に陥っているのか、それについて考え出すと二度と螺旋から抜け出せない。奈落に向かって降りてゆく自分の影を追いながら、歩を進めるだけの人生が突如目の前に開けてくる。ただ、その先はどこまでも明るい。自分の姿を見失うことはない。私はいつか死ぬのだ。それだけの事実がぽっかりと口を開けて階段の終わりで私を待っている。

私は因果応報というものについて考える。この苦しみがどこかに起因するものならば、それは前世の報いなのか、今生の業なのか、私自身には判然としない。ただ、今生で私の輪廻が終わるならば、この苦しみは耐えられないこともない。来世も同じような苦しみを受けて、そしてまた人間に生まれつき、この病に罹るのならば、二度と死にたくない。二度と生まれ変わりたくない。私には死ぬ苦しみより生まれる苦しみが強い恐怖と嫌悪を呼ぶのだ。仏教では二度と生まれ変わらないことを「解脱」という。私は、この生まれる苦しみに対する恐怖から、逃れられる日がくるのだろうか。