陽だまりの子

Child In The Sun

016. 陽射し

子猫を飼いたい。小さな猫がいい、これからどれぐらい大きくなるか楽しみだから。毛並みのきれいな猫がいい、これから何千回何万回もその背中を撫でるのだから。毛の色は黒がいい、闇からそのまま抜け出たような透き通る黒。向こうの見えない墨色の猫は少し薄気味悪いだろう。猫の体はしなやかで、音もなく階段を下りていく。僕は靴の踵の音を響かせて、その後を追うのだ。毎日のように、彼は階段の入り口で僕を待っていて僕たちはアパートメントの7階から1階までの短い道のりを毎日ともに歩いて明日に向かう。

マグは独房の壁に背をもたせかけ司祭の話を聞きながらぼんやり夢想していた。司祭は口の端に泡を挟みながらマグに神のおわす国・天国の話を延々ともう30分も続けている。マグはもうすっかり厭きていた。窓から夕方の光が差し込み、マグの頬の上を滑っていった。マグは自分の足元に落ちる自分の頭頂部の影をじっと見つめて、司祭の話の切れ目にただ「はい」としおらしく頷くだけにした。こうすれば夕方の影にも司祭の話にも惑わされることはない。自分は猫のことだけ考えていればいい。黒い猫、生まれながらに不吉の象徴とされる黒い猫、子猫にも関わらず、彼は一生を自分の体毛の色のために忌み嫌われながら生きていくことを決定されているのだ。
「可哀想だ」
「どうしたのです」
司祭が鋭く言葉の端を捉える。
「黒い猫も死んだら天国に行くのでしょうか」
「あなたはどう考えるのですか」
司祭は逆に問い返してきた。
「そうですね……、もし神の教えを受けていない者しか天国の門をくぐれないとしたら猫は無理でしょう。猫は人間の言葉を解しませんし、神の教えはそのほとんどが人間の言葉で語られ、人間の言葉で理解したことを伝える訳ですから。そうすると、僕がここで“神はいない”と言い切ることと、猫が神という存在を理解しないまま死ぬこととは同じなことで、僕たちは二人とも地獄に落とされるのでしょうね」
夕方の光は次第に薄くなり、緑色の空が深い紺色に染まり始める。独房の窓から町の音が聴こえてくる…。それはマグの愛していたものすべてだった。夏の夕方のさざめき、豆腐屋のラッパの音、行き違う路面電車の警笛、女たちの甲高い笑い声とヒールの音、アパートメントの窓からこぼれる温かい夕食の匂いと蛍光灯の淡い光。独房の夕闇の中で、もうマグの表情は殆ど見えなかった。
「あなたは自分の犯した罪を悔いていますか」
最後に司祭はこう訊いた。
「いいえ」
マグは首を振る。
「ただ、自分が昔の生活にもう戻れないことと知って後悔はしています…。あなた方のおっしゃる悔悛という言葉が僕の今の感情に当てはまるのか僕自身では計りかねますが」
司祭は満足そうにもう一度頷くと独房を出ていった。石造りの冷たい壁が、マグに夜の訪れを知らせる。マグは暗闇の中でまだ見ぬ自分のランプ・ブラックの猫のことをひたすら思っていた。それは死刑囚が恋人の唇や昔の生活に焦がれる気持ちと同じものだった。