陽だまりの子

Child In The Sun

012. 曇

ジルベールは鏡のようにワックスで磨きこまれたグランドピアノの蓋に手をついて舞台に立っていた。満員の観客に背を向けて…。グランドピアノの前では彼の恋人のマリグラスが彼の田舎の童歌をゆったりと奏でている。二人はこう話し始める。
「アラン、私は思い出すの。美しかったあの故郷のことを……、私たちはもう帰るべきなのかもしれないわ」
アランはジルベールの役名だ。
「そんなことは考えてはいけないよ、マリグラス。返らない昔のこと、僕たちには知りようもない未来のこと、そんなことを考え始めては気が違ってしまう」
そしてジルベールは観客に振り返り、台詞とは裏腹の郷愁と希望に満ちたあの複雑な笑みを口元に浮かべてグランドピアノから離れて歩き出す。二歩、三歩。マリグラスの奏でるピアノに合わせて童歌を口ずさみながら……。その複雑な笑み、童歌を押し出す美しきテノール、彼の正しく伸びたまっすぐな背中から差し伸べられる逞しい両腕。それはジルベールに俳優としての確たる成功と名声を与えるはずだった。

だが、ジルベールは成功も名声も得ることはなかった。彼がグランドピアノから離れて歩き出した瞬間、小さな弾丸が彼の額に食い込んだのだ。それは気の違った貴婦人の華奢なピストルから発射されたものだったが、ジルベールの俳優としての命と正気を失わせるには充分だった。ジルベールは今、彼の故郷の小さな田舎家に一人で暮らしている。訪ねてくるのは通いの召使と気心の知れた戯曲家・ジャックだけだった。優れた整形外科医の手によってジルベールの額の弾痕はもうほとんどわからないほどに治ってはいたが、彼の脳にできた弾痕は彼の面からあの笑みを奪ってしまった。今のジルベールは一日、陽光の射し込む居間のソファに足を伸ばして腰掛けてジャックの持ってくる戯曲の草稿を眺めている。ジャックは男色家でジルベールを愛していた。特にジャックはジルベールのあの笑みが好きだった。薄い上唇が頬の固い肉を押し上げ笑窪を作る、目はゆっくりと下りる瞼で光を落とし灰色の瞳が墨色に変わる瞬間。ジャックは何度、その笑みを思い返して一人の夜を過ごしただろう。しかし、ジルベールは男色家でないばかりではなく、今はジャックの愛したその笑みも小さな弾痕のため失われてしまっていた。しかし、まだジャックはジルベールを愛していた。ジルベールのために戯曲を書き続け、ジルベールの許しがなければ主演の男優を他に求めようとはしなかった。ジルベールが原稿をコーヒーテーブルの上にぽいと投げ出すと、ジャックは強い緊張のためにいつも自分の両腕が石のように動かなくなった。
「ここの主役の“一度、メイドを振り返り今までの感謝を示してぎこちない笑顔を浮かべる”の部分は僕は要らないと思うな」
笑みを失ったジルベールは殊に残酷だった。そうか、とジャックはその部分に赤いインキで線を引いた。
「どうして君は男優をそう笑わせたがるんだい」
ジルベールはコーヒーを飲んでいた。ジャックはウィスキーを飲んだ。ジルベールはあの事件以来、医者にアルコールを禁じられている。ジルベールは頑なにそれを守り客にはいつもアルコールを振舞ったが、自分は必ずコーヒーか水を飲んでいた。
「笑わせるのは男優よりも女優にすべきだ。劇場の支配人が喜ぶのは観客の入りだけさ」
「女優の笑顔なんて皆同じさ」
ジャックはまたウィスキーを飲んだ。
「女性の笑顔のヴァリエーションはもうこの世に出尽くしている。ただ、男性の笑顔にはまだ進化の余地があるはずなんだ」
ジャックはそれを舞台で表現したいのだと熱っぽく語った。
「僕はジルベール、君こそがその新しい笑顔を見せてくれる俳優だと信じていたんだ」
そうかい、とジルベールは笑うと長い手足をソファに持たせかけ窓の外の眩しい陽光と西洋アジサイを眺める。
「僕の最後の芝居の始まりにはこうあったね……。“そしてアランはマリグラスに背を向けると、複雑な笑みを口元に浮かべてグランドピアノから離れて歩き出す。二歩、三歩。”僕は君に『複雑な』の意味を何度も訊ねたっけ」
「そうだ。そして君は僕に何度も笑いかけてくれた…。それは、ただ一介のの役者としての笑みだけで、僕には友人としてのあの美しい笑顔を向けてくれることはなかった」
「ジャック」
ジルベールは優しく言った。瞳は灰色のままだった。
「最後の舞台の君の笑顔、あれは完璧だったよ。僕は新しい人間の表情を発見したんだ」
「ジャック」
再度、ジルベールはジャックの言葉を遮った。二人の間にしばしの沈黙が流れる。
「その次に君の言うはずだった台詞を覚えているかい?」
ああ、覚えているとも。ジルベールはジャックの言葉にソファからゆっくり立ち上がるとジャックに背を向けて立った。ちょうどあの劇場の開幕のときと同じ姿勢だった。ジャックは背中を心地かがめ、首を下に少し傾げていた。ただ、瞳はグランドピアノについた自分の両手をじっと見つめていることを観客は(ジャックは)背中からすべてを悟っていた。ジャックはクッションの右端を緞帳のように握り締めて、ジルベールの背中を見つめている。ジルベールが始めた。
『そんなことは考えてはいけないよ、マリグラス。返らない昔のこと、僕たちには知りようもない未来のこと、そんなことを考え始めては気が違ってしまう』
振り返ったジルベールの面に笑顔はなかった。

「『マクベス』からの援用だったね」
そうだ、と力なくジャックは応える。
「僕は何度でもこの台詞を君に繰り返すよ。『そんなふうに考えはじめてはいけない。そんなことをしたら気違いになってしまう』」
「一年後、君は笑ってくれるのだろうか」
「わからない。わからないことは考えてはいけないんだ」
ジャック、と優しくジルベールは彼の親友の名を呼んだ。
「いつかひとりでにわかるときがくるのさ。君が偶然、僕の最後の舞台で求めていた人間の笑顔に出会ったように、求めていたものは幾ら求めていてもやってくるかもしれないし、やってこないかもしれない。僕が最後に笑ったのはいつだったか、そんなことも思い出してはいけない。運命の流れの前には、僕らはただの弱い葦でしかないのさ」
そういったジルベールの瞳は灰色に曇っていた。