陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第11話

 数日後、海から引き上げられた母親の車からは言い知れない臭気が漂った。遼子はけして中を見なかった。母親と弟の遺骸は荼毘に付され、白茶けた骨が墓に入った。呆けたように「助けられた」と繰り返す遼子は、職員に手を引かれ施設に入った。
 遼子は心中する前、母親が遼子を道連れにすることに耐え切れず水族館に置き去りにしたと考えられた。誰も、遼子が母親と弟とともに海に一度落ちたことを信じる人間はいなかった。遼子は何度か、自分を助けた何者かの存在を人に話したが、誰も取り合わなかったので、いつの間にか自分でも触れなくなった。遼子自身もおぼろげにしかそのことを思い出せなかったので、次第に自分自身でもその事実に対して懐疑的になり、そして忘れた。
 周囲の人間は、一人で生きていかなければならない遼子が、自分の母親と弟を後追いするかと心配したらしいが、一度忘れてしまった遼子は平穏に日々を過ごしていた。何もかも忘れて。目の前にある義理の父母のあたたかい手に安んじて、自分の人生に感謝していた。人魚が持たせてくれたペンギンのぬいぐるみを抱きしめても、もう何も思い出さなかった。

 私の目の前には、今人魚がいる。人魚はすべてを思い出した遼子に向かって、あの日と同じように微笑んだ。もうその面から皮肉や嘲笑は消えていた。その代わりに浮かんでいたのは憐れみだった。
「私の命数はいつ尽きるのかしら」
いやだ、そんなこと目の前の彼女の顔を見ればわかることなのに。遼子はハンドバッグの持ち手をぐっと握り締めて溜息をついた。
「長生きできないと言ったはずよ」
「そうね。人間は長く生きすぎよ」

 その日、水族館のペンギンの檻の前で、一人の女性の死体が見つかった。すっかり古くなったペンギンのぬいぐるみを枕にしていて、そのぬいぐるみから三十年前、このペンギンの檻の前で発見された少女と知れた。思いつめての自殺と報道されたが、何を思いつめていたのか明確には誰も知らなかった。

【了】