陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第5話

 遼子は食堂に戻り、ビールを注文した。おかみさんが盆に中瓶とコップを載せてよちよちやってくる。
「おかみさんは思い出したくないことってある?」
いいや、とおかみさんはかぶりを振って向こうへ行ってしまった。私は思い出したくないことを思い出さないほどに頭の中へしまいこんでいる。そうして生きることは、自分の過去を寸断しながら生きていることではないのだろうか。
 ビールを注ぐ。私はあの日、母親に捨てられたあの日、あのペンギンの檻の前に辿り着く前にどこにいたのだろうか。秋の終わり、雪混じりの冷たい雨が降っていた……。空は暗い。私はずぶ濡れだった。
 ずぶ濡れ。そうだ、体中から雫が滴っていた。目の前のビールのグラスには夥しい水滴がついている。そうだ。思い出した。私は濡れていた。雨のせいで濡れていたのではないだろう。ずぶ濡れになるのに、あの程度のみぞれ雨では何時間かかるかわからない。
 それなら、なぜ私はずぶ濡れだったのだろうか。どこかの水場に落ち込んだ? ペンギンの檻の中のプールにでも? いいや、それは不可能だ。あの柵は大人でも越えられないほどに高い。それに、長時間かけて子供が一人で柵をよじ登っているのを見咎めない大人が誰一人いないということは不可能だ。
 私はどこか水場に落ち込んでいた。そしてそのどこかの水場から這い上がってきてペンギンの檻の前に辿り着いたのではなかったか。
 だめだ。これ以上は思い出せない。
 遼子はぐっとビールを飲み干すと、グラスの水蒸気で湿った自分の掌をじっと見つめていた。