陽だまりの子

Child In The Sun

雪乞い

 今、私はある街跡に立っている。今では、この街に住む者は誰もいない。

 その年、この街には冬になっても雪が降らなかった。ただ冷たい風がびょうびょうと吹きつけるばかり。天を見上げる者は数知れず。だが、そこには濃藍の空が広がるばかり。空を覆う大気は雲を、この大地に一片の影すら与えてくれぬ、雪の降らぬまま冬は深まる。人々は外套の襟を立て、首を竦め、足早に黒いアスファルトを通る。唇を皆一様に噛み締めている。

 何故、雪は降らぬのか。何故、大気は水を含まない。海を渡る風よ、遥かな大地をかすめてきた風よ、御主は雪にならぬのか。人々は問う。この街には毎年、屋根まで埋む雪が降るというに、このまま、雪の降らぬまま一年が過ぎてしまうのか。子供は何も思わない。雪など降らぬとも、彼らには黒い大地がある。
 しかし、大地は日々潤いを失い、枯れ草は吹き飛ばされ、落ち葉は罅割れて粉々になった。川面は凍るが、その幅も徐々に狭くなり、池の魚も底深く潜った。

 春が来ないのではないか。人々は、つとそう考えた。とき既に師走。空にはひとひらの雪も舞わぬ。やがて、年が明けるだろう。そして冬が過ぎ、この街にも遅い春が来て、若草が萌え桜の蕾も色付くだろう。しかし春は本当に来るのか。まだ雪すら降らぬというに。街行く人々の風体も何処かよそよそしい。雪が降らぬ冬の外套など、今まで誰も持ってはいなかった。外を歩くには、長靴が一等適当だった。耳まで隠れる深い帽子、暖かいミトンの手袋、長い襟巻き。しかし、この異様な景色はどうだ。いつもの長い外套も帽子も手袋も襟巻きも、その影を見ない。道を滑る心配もないから、誰も長靴を履かぬ。この街の歩調は何だ。師走の慌ただしい雰囲気すら、身を切るような風に掻き消される。人々は思った。この異様な景色はどうだ。雪は降らぬ、このままでは春は来ないのではないか。

 夏、山は黒く、河は蒼く、空は群青に染まった。この夏、何一つ異常なことなどなかった。晴れた空には必ず夕方になると入道雲が湧き上がり、夕立を繁く降らせた。秋も何一つなく、豊かに穀物は実り、また栗にも葡萄にも、山のアケビにさえも、何一つ異常なことはなかった。そう、何一つ。では、春はどうだったろう。そうだ。人々はふと、思い当たった。桜が咲いていた。
 この土地の桜は土地特有の淡白な気候と痩せた土壌の為に、紅に色付くことはほとんどない。花弁も薄く、白っぽく、また夢を抱かせるまでの幻想的な風情で、毎年おずおずと花開くのである。しかし、この年の春、桜は一斉に紅に色づいた。紅梅が二度、咲いたと見紛うばかりの紅さであった。年若き処女が恋人の胸でそうするように、白い肌に紅を引いたが如く、赤く赤く染まった。しかし、それは桜に違いなく、同じ時期に花開き、同じ間だけ辺りを染め、人々を夢心地にした。そして散った。散るとき、人々は一斉に固唾を飲んだ。空から紅の雨が降り注ぐように見えたのである。髪につき、鼻につき、肩についた花弁を人々は厭わしげに払った。花弁は踏まれても踏まれても消えず、大地を紅に染め上げた。

 その大地の上を今、風が吹いている! 人々はあの桜を思い出し、その幻を払おうとして頭(かぶり)を振った。丁度あのときそうしたように! 風は吹く、吹きつける。大地は灰色、空は紺、人々は惑い、生き物も皆彷徨う。あの桜か? あの桜か? あの桜か? 人々は同じ問いを胸に持つ。乾いた大気は塵芥を巻き上げ、不安を一層募らせる。風はびょうびょう吹きつける。

 雪は降らぬ。雪は降らぬ。雪なき朝は続く。空から舞い降りてくる天使の影すら見えぬ。その羽すら見えぬ。何も降りて来ぬ。風はますます強く吹き募る。人々は空を見上げた。子供たちも皆、不思議がった。年寄りは空に向かって手を合わせた。山は枯れかけていた。池は氷すら張ることができなくなった。干涸びた魚類の死体が凍って、いつまでも腐らず、池の底で川の縁で、転がっていた。大地は乾き切り白茶けて、朦々と立つ砂塵が人々の視界を遮った。雪よ、雪よ、雪よ! 御主はなぜ降らぬ。この季節の循環に飽いたのか。それともこの土地の人間を生物を植物を御主は苦しめんとするのか。大気は乾ききっていた。あの桜の花弁が埋まっている大地の上を風はただ、吹くだけだった。

 あの日、この街は魔物に支配されていた。街の方々から飛び出した紅の炎は、強風の援けを借りて空を目指し、街を犠牲とした。炎が紅い舌を出して家々を飲み込んだ。熱風が木々を薙ぎ倒した。人々は逃げずにいた。間近で炎を見ても既に意識が焼き尽くされてしまったのか、茫然と立ち竦むだけでそのまま煙に巻かれ、倒れた。
 人々の屍体を踏み越えて炎は空を目指していく。紅い火の粉は空を翔け、山々にまで燃え移った。そう、その火の粉は──火の粉は、あの桜の花弁だったのである! 倒れた人の数だけ炎も数を増し、ごうごうと空高く黒い煙を吹き上げた。火の廻りは自ずと早く、誰一人としてこの街から出ることなく、炎は三日三晩燃え続けた。そして全てが灰と炭となった。

 まだ炎がちろちろと屍体の皮膚を舐め、三日三晩の炎が吹き上げた煙は黒く、空を満たしていた。昼と夜ともつかぬそのとき、空からひとひら真白な花弁が降ってきた。十片、二十片、いや、まだあろうか。ひらひらひらひらゆっくりと、鳥の羽がそうするように、左右に揺れ、時には舞い上がり、馥郁たる香りを辺りに漂わせながら──積もった。それこそ、人々が待ち望んだ雪であった。雪は真白な両翼を広げ、街を包む。誰一人、いない街を! 何者もそなた無しでは生き得なかったこの街を! 見る間に雪が積もっていく。燻った灰色も、焦げた屍体の黒も、無論炎の紅も、全て真っ白に浄化されていく。

 今、私はその街に立っている。そして、雪が降るのを眺めている。人々の魂魄が、その花弁に混じって私の上に降り注ぐ。白い魂。今では、この街に住む者は誰もいない──そう、今では誰も住んでいないこの街だが、今でも真黒に焦げた桜の梢からは花が咲くそうである。真白な花弁を空に吹き上げるために。