陽だまりの子

Child In The Sun

五色の山 - 東の青い山 第3話

 案の定、娘はともに行こうという主人の申し出を固く断った。
「昨日は思いもかけぬ丁重な接待を受け、これ以上のお世話はかけられませぬ。青山寺にはわらわ一人で参ります」
「どうしても断るというのなら、同道ということではどうじゃな。わしも久しくあの寺にお参りしておらぬ。これを機会に夫婦二人の無病息災を祈願してこよう。それならよかろう。娘御、同道仕ろう」
それなら、と娘は頷いた。身をまとう白装束は昨晩のうちに爽やかに乾き、綻びはきれいに繕われている。娘は弁当を受け取り、重ね重ね嫗に礼を言う。
「帰りはまたこの屋にお寄りなされ。婆がまた雑炊を煮てあげましょうよ」
娘と主人が出立すると、嫗は葛篭から自分の娘時代の着物を取り出し、繕い始めた。あの娘も自分の目が癒えて、父親が家に戻ればもう巡礼を続けることもあるまい。ここから懐かしい故郷の家へ帰ればよいのだ。
 一方、主人と娘は次第に激しさを増す日差しと競うように歩を早めた。次第に迫る青山の巨大な影に、娘は今更ながら目を見張る。
「寺はどこ。伽藍のうち、もう、塔ばかりは見えてもよいはずですが」
「ああ、寺は青山のちょうど裏にある。そして、この山の向こうはすぐ海につながっておってな。山がそのまま海の上にせり出して岬となっておるのじゃ。青山寺はその岬のちょうど根元にある。百人以上のお坊様、諸国より集った多くの行者様が日夜修行に励んでいらっしゃる。きっとそのうちに娘御のお父上もいらっしゃるじゃろ」
ふと、表情が曇る娘に気を払い、主人は昼飯にしようと言った。娘はちょっと笠を上げて、日の高さを確かめる。ちょうど日は二人の真上にあった。
 二人は木陰に憩い、弁当を広げる。
「梅干は好きだ」
娘は握り飯を頬張る。
「代々、我が家の血脈に連なる者は光を失ってきた」
娘は口元についた飯粒を取ると雀に投げてやる。
「他家から嫁いできたわらわの母上はこの病とは無縁だが、わらわの叔父上叔母上、お祖母様は既に光を失い久しく経つ。わらわの生まれるより先にお亡くなりになったお祖父様も早くから目が見えなかったと聞く」
娘は次の握り飯を頬張る。主人も、たくあんを齧りながら雀に目をやる。
「しかし、娘御。盲いた者は多くおる。そなた一人の不幸ではない。目がなくとも耳がある、この手もある。口も利ける。それでどうして不満なのだ」
「御主人、それは手のない者に足があると言うのと同じことだ」
娘は笑う。
「五体満足な者だけが言える言葉だ」
「すまなかったな」
「言うとて詮無きこと。お気になさるな」
娘は裾を払って立ち上がる。
 山や川はいつもそこにあっても一瞬たりとて同じ姿であることはなく、草木は日々その色を変える。生を受け死に至るまで、その一瞬一瞬の全て脳裏に刻むことはできないが、盲いた者は、愛しい者の、今この場にともにある影すら認められぬのだ。
「お父上に、成長したそなたの姿を見てもらえればよいな」
「そうだ」
娘は笑って杖を取り上げ、二人は連れ立って歩き出した。
 険しい山道を踏み越えて、二人はひたすら寺を目指す。幸い、鬱蒼と茂る木立に激しい日差しからは守られていたが、陰鬱な湿度に二人は辟易した。滝のように滴る汗に、手拭いは絞れるほど。所々に湧き出る泉にその喉を潤し、草鞋の紐を結び直して二人はまた上り始める。
 どれほどの時間が過ぎたろうか。日は西に傾き、光は枝の間からわずかにこぼれるのみ。険路を娘と主人の二人は慎重に歩を選び、なおも寺を目指す。玉砂利が敷かれた道を過ぎ、鳥居をくぐり、石段を登る。年月に苔生した石燈籠に、何本かの蝋燭が心もとなげに揺れている。先程の行者たちが点したものらしい。二人は顔を見合わせ、足を速めた。額上の山門。
 堂内に入ると、多くの行者が慌しく今晩の行の用意をしていた。まだ年端も行かない娘と年老いた男という異様な取り合わせに目を見張ったが、娘の父を探しているという言葉に、一人の行者がこの寺の和尚を呼びに行った。二人は草鞋も解かず、じっと土間に立って、堂内を見つめている。ここにも薬師如来の仏像が置かれている。須弥壇の上のその仏像は、丈は精々三尺ちょっとと言ったところであるが、豊かな衣文の表現と穏やかな表情が細かに表され、柔らかな身体の稜線が金銅の冷たい体を温かく見せている。左手には小さな薬壺。娘は土間からそっと手を合わせた。
行者の一人に連れられて、この寺の和尚がやってくる。
「父を尋ねてきた娘と言うのはそなたか」
老僧は豊かな髭を右手でしごきながら、娘を見下ろした。
「はい、瑠璃と申します。父の名は……」
皆まで言う必要はなかった。老僧が手で制したからだ。
「僧籍に入ると言うことは、俗世との関わりを立ち、ひたすら仏道に精進することを指す。そなたの父に当たる男は確かにこの寺にいるが、その男がそなたに会いたいと思うかの。第一、病の治癒を願ってこの寺に入り、その願がまだ叶わぬというに」
娘はじっと頭を垂れてその言葉を聞いていたが、迫る暗闇に押され、きっと面を上げた。
「父が会いたくないと言うのなら、わらわはこのまま山を降りましょう。そして二度と訪れませぬ。しかし、父に娘が来たとそれだけは伝えてくれませぬか」
真摯な娘の申し出に、老僧は幾分躊躇っていたようだが、遂に頷くと再び伽藍のうちにその姿を消した。
 長い時間が過ぎた。娘と主人の二人は堂内に上がり、接待の米を煮て雑炊を啜った。娘は桶に水を汲んでくると、部屋の隅で諸肌脱いで体を拭き始める。父に会う前に少しでもきれいにしておこうという心積もりらしい。今日一日の行脚で、洗いざらしの脚伴も手甲も埃に汚れ、どんなに払ってもそれは落ちなかった。娘は溜息をつくと、元通り着物をつける。その間に主人は鍋と皿を洗いに外に出ていた。
 戸の向こう、足音が聞こえる。堂内には娘一人。薬師の前に上げられた灯明のわずかな光に目を凝らし、土間の向こう、閉ざされた戸を見つめる。がらがら。ぎこちない音を立てて、その戸の間から一つの影が現れた。わずかな灯明の光では殆どその姿を認められぬ。
「瑠璃はいるか」
こつこつ、と手の杖で土間の終わりを確かめて、その僧は下駄を脱ぎ堂内に上がってくる。次第にその容貌が明らかになる。広い額の下には深く落ち窪んだ瞼があり、その間から青みを帯びた瞳が見える。鼻梁は途中で少し折れている。薄い唇、痩せた頬、全てに艱難の色が満ちている。若い頃は大変な美男であったろう。日に焼けた裸の頭皮に手を乗せると、見えない瞳を見張って彼は自分の娘を見た。幾度か唇が震え、その隙間から言葉が発せられる。柔らかいその声は、低く、だが確かに娘の耳を打った。
「瑠璃か」
「父上か」
懐かしい声。娘は飛び上がり、父に走り寄った。