陽だまりの子

Child In The Sun

098. 無駄な夢

 降り始めの細かい雨が、車のヘッドライトに浮かび上がり、アブラムシの群れのようだと僕は思う。自分の手には紺色の古ぼけた傘、行き違う様々な色の車。
 ここ数日、腸の底まで腐ってしまいそうな雨が続いたが、今日の雨はさわやかだ。第一、雨粒が冷たい。その上、今日は風がなく、自分の傘に垂直に雨が落ち、ナイロンの上を滑る雨粒は細かいさらさらと砂の音がする。僕は小さく口笛を吹き、家への道を急いだ。
 二車線の狭いバス通り。バスが停まるとしゅっとガスの抜ける音がして、バスの扉が開く。コンビニの前のバス停で、ばらばらと人が降りる。皆一様に傘を広げ、僕の隣を過ぎた。
 その中に一人、緑の傘の女がいた。その傘を見つめて、僕は一瞬立ち止まった。
 なんてことはない、ただの傘だ。色は鮮やかな緑で、縁にフリルがついている。全体に丸い形で、時代の貴婦人が持っていそうなデザイン。ただ、生地はナイロンで、スチールの骨も安っぽかった。女は、それを広げると小さなバッグを肩に歩き始める。僕は、足を止めて、その女の後姿を見送った。
 緑色の傘を差して、「ねえ、お嫁さんにして」と、僕の恋人は唐突に言った。
「どうしたの、急に」
僕は慌てた。恋人は傘を左手に持ち帰ると、空いた右手で僕の左手を掴む。
「一緒に暮らしたいの。一人で家に帰りたくない。一緒にいたいの、さびしいのよ」
驚きを過ぎて、僕は半ば呆気に取られ、恋人の顔をまじまじと見つめた。
「こんなきれいな雨の日に、部屋で一人、音を聞いているだけなんて」
やだやだ、と恋人は地団駄を踏む。
「つまんない。せっかく恋人がいるのに、つまんない」
僕は結局そのプロポーズに返事をしなかった。恋人はそれからしばらくして、別の男と結婚した。
 あのとき、あの雨を美しい、きれいだと思っていたのは恋人だけではなかった。自分も、あの雨を今日と似たあの雨を美しい、好ましいと思っていた。だが、恋人の唐突なプロポーズに驚いて、それを言えなかったのだ。自分もそう思っていると告げればよかったのか。いや、本当は自分も恋人と暮らしたいと思っていたことを話せばよかったのだろうか。
 僕には、そのとき恋人と暮らせない理由は何もなかった。しかし、僕は「つまんない」とは感じなかった。一人の時間を「つまんない」とは感じていなかったのだ。だから、恋人のその言葉をかわいらしい、女の我儘だと決めつけてしまった。ただ、その感情のつまらない齟齬ひとつだけで。
 六月の雨は、やはり。緑色の傘の女は次の角に消えた。僕は歩き始める。きっと、明日からまた腸の底まで腐ってしまいそうなじめじめした日が続く。