陽だまりの子

Child In The Sun

095. 苦笑

雨が桜の花も何もかも押し流してしまった。若葉にはまだ早い新芽が木の間に漂っている。
「今日も何も予定がないの。つまんない」
少年は自分の靴下の先を引っ張りながら口を尖らせた。さっき自分で焼いて食べたホットケーキのせいですっかり眠い。でもこのまま眠るのは癪だ。ぐずぐずとソファの前で本を眺めている。
「明後日には出発だろう。いいかげんトランクを閉じたらどう」
「やだよ、明日また入れたいものが出てくるかもしれないじゃないか」
少年の兄と思しき青年が溜息をつきながら皿を台所に片付ける。
「明後日まで準備以外何もできないなんて、出発って面倒くさいんだね」
「どういうものだと思ってたの」
そうだね……、と少年は本をぽんと投げ出すとソファの上にごろんと横になった。
「ホットケーキを食べたのは冷蔵庫に残っていた最後のマーマレードを食べてしまいたかったからだよ。固くなっててビンの底から拾いづらかったから電子レンジでちょっとだけ温めて緩んだところをすくったんだ」
こうだよ、と少年はスプーンでビンをすくう手真似をして見せた。
「そうだね、おかげでマーマレードのビンはすっかりきれいになったよ」
「そうでしょう。マーマレードも残らず僕のおなかの中に入った」
雨はまだ降っている。明日も雨だ。昨日一日は晴れていたのに、雨は二日も降り続く。不公平だよね、と少年は兄の真似をして溜息をついた。
「マーマレードもホットケーキも冷蔵庫も、僕は何も持っていかないのにどうして僕の出発にこうも関わるんだろう。トランクに荷物を詰めて閉じるのはわかるよ、でもさ、この家で自分が使っていたものを一々自分で片付けていかなくてはいけないのが面倒くさいんだよ。それも準備のひとつだってのはわかるさ。僕はこの家に帰ってくるんだから……」
「そうだね。家に帰ってきたときに冷蔵庫の中身が腐って食べられないものばかりでは困るだろうからね」
「兄さんはそう割り切って考えられるのだろうけど、僕は得心がいかないなぁ。もうすぐ出発なのに、自分がいつもよりずっと深くこの家に結び付けられていく気がするんだ。マーマレードだのホットケーキだの冷蔵庫だの、後ろ髪引かれるってこのことなのかなぁ」
「お前は考え深いんだよ。感じることに対して考えずにはいられないんだ」
「損な性分だよ」
「いいや、いいさ。家に残る僕にもお前なら必ず帰ってくることがわかるからね」
「明後日になれば、すっかり忘れてしまえるといいな」
「お前には無理だよ」
ははは、と兄は声を立てて笑うと半分脱げた弟の靴下をぱっと奪い取って洗濯物置き場に放り込んだ。
「この靴下を洗うのは僕だよ。干すのも僕だ。僕は先々のことも後のことも心配してない。雨が続くと洗濯物がたまって困るなとは思うけどね、思うだけさ」
「俺の心配はしないの」
「するさ、でもお前は僕の心配はしなくていい。家でお前が帰ってくるのを待っているよ」
「兄さんが僕の心配をしているのではないかと心配なんだよ」
「やっぱりお前は損な性分だね」
「そうだね」
弟の投げた本を取り上げると、兄は本棚に片付けた。
「もうおやすみ、起きているとお前は考えすぎる」
そうする、と目をこすりながら寝室に入る弟の背中を見送って兄は声を出さずに笑っていた。
「損な性分だよ、心配でどうしようもなくなるのに」

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