陽だまりの子

Child In The Sun

092. いつかどこかで

林檎と水だけの夕飯を済ませてしまうと、私はベッドに飛び込んだ。ぎしぎしいうスプリングと鉄のフレーム。部屋は冷え切っている。「週に5ドルなら上等だわ」と言って借りたこの部屋が寒々しく感じられるのは、嵐の夜でもなく、霜の降りた朝でもなく、今日の夜のように冬なのに春のように暖かく、自分の腹が満たされているときだ。満足していることに不足を感じている……。シーツの中で私は四肢をぐっと伸ばした。晩御飯の林檎が胃の中でごろごろいう。

晩御飯の林檎は、人から貰ったものだった。実家が林檎の名産地にあると言って、職場の同僚が送られてきた林檎を配っていた。私は遠慮なくそれを受け取った。なぜって、その林檎を晩御飯にしようと思いついたからだ。今日の晩御飯の予算だけ、お金が浮くと思って。その太陽の光を思いっきり中に貯め込み、はちきれんばかりに熟した林檎がおいしそうに見えたからではない。

私は1ペニーだって無駄にできるお金はないのだ。借金はないが、貯金もない。「贅沢さえしなければ充分に暮らしていける」お金だけが手元にあって、毎日が綱渡りのようだ。当座の金が手元に幾許かあったとしても、その金が尽きたときの保証はない。将来への不安が、鳥の羽音のように耳元で羽ばたき続ける。この不安に立ち向かうには、私は「贅沢さえしなければ充分に暮らしていける」この状況に得てして満足しなければならないのだ。私は隠れ守銭奴だと自分を嘲ってその日を暮らす。

私と同じ隠れ守銭奴たちは、誰に問われることもなく正確に自分の今の銀行通帳の金額を暗唱できるだろう。自分が1ヶ月生き延びるのに必要な金額は幾らなのか、明細まで揃えて暗唱できるだろう。1ペニーだって間違いやしないのだ。私たちはその金額と明細だけが次の日の出までの自分の細い命綱であることを知っている。そしてその綱を離さぬようしっかりと握り締めているのだ。綱を握り締めている限り、奈落に落ちぬ限りは、神の恩寵のように何か自分に与えられるものがあると信じて夢見ているのだ。ある日、宝籤が当たったり、遠縁の親戚から莫大な遺産を譲られたり、何か小説のように自分にも幸運が訪れると信じている。そう、夢のようなことを…。どんなに夢のようなことであっても自分に訪れることはないと感じていても、ただ明日のためだけにこの金という綱を離せないのだ。

冷たい林檎と水だけの夕食、しかし今日の夜は暖かい。この夜の合間に眠ることで、私は恵まれない幸運に少しだけ近づいていく。綱がきりきりとしなる。その音は時計のぜんまいの音なのか、ベッドのスプリングの音なのか、疲労した耳にはもう、区別はつかない。