陽だまりの子

Child In The Sun

087. 今必要としている物(1)

私にはほしいものがたくさんある。最近は一眼レフのカメラがほしくてたまらない。どうしてもほしい。カメラでたくさん写真を撮りたいのだ。私は絵を書くより文章を書く方が得意だ。だが文章はいくら頭に思い浮かんでも、こうして手先からアウトプットしなければ何も残らない。対して写真はインプットの作業だと思う。自分の目で捉えた景色をフィルムに仮保存して、もう一度自分の目で見て完全に覚えこむ。

だから私はカメラを自己表現の手段にしようとは考えていない。実際に私の撮る写真は、芸術性の著しく欠落したものが大半を占めている。現実をありのまま、誰を目の前にすることもなく、木々の光を待つこともなく、私はただシャッターを押しているだけのことが多い。そして私が自分で撮った写真を見るときには、自分の脳味噌の中身がフレームに区切られてパラパラ漫画のようにコマ落ちしながら展開していくイメージがある。映像の世界に携わってきて、写真の静止画の記憶と、映像の動画の記憶は、表現も違えば記憶の方法も違うことが最近わかってきた。静止画より動画、映像の方が記憶に残るとよく言われているが、それは実際に自分の目の前で現前している現実に映像のイメージが近いからではないだろうか。映像は所詮虚構に過ぎず、実際の人間が動く様を映しても、二次産物であることは否めない。しかし、現実が常に川の水のように流動していることを体験として知っている人間は、経験的に動く映像が現実に近いと認識して、映像を選択するのかもしれない。すべては私の憶測に過ぎないが……。

私の記憶はコマ落ちした静止画の方に近いようだ。幼い頃の記憶は、写真のように動かぬ風景画として目の前にあり、そこで活弁のように自らの声で当事者の思いが語られていく。自分の頭の中で現実を何度も再生していくうちに、テープが擦り切れてしまったのだろう。その止まった記憶を何度も自分の目で見返していくごとに、私は自分の記憶が元来静止画だと記憶をすりかえたのか。目の前にあるのは、止まらない現実なのに、私の記憶にあるのは静止画の虚構なのだ。私の記憶は、写真に近い。自分の朧になってきた記憶を助けるものとして、私は今、カメラがほしいと切実に願っている。