陽だまりの子

Child In The Sun

083. 仲直り

私は人の憎悪を見るのが嫌いだ。人や何物かを憎んで歪んでいる人の顔や、吐き出される罵詈雑言に耐えられない。ただ、悲しそうにしている人の顔は嫌いではない。何かを悲しんでいる人は優しい人だということを本能的に知っているからだ。今、私の目の前にいる人はとても悲しそうにしている。眉の間に深い溝が刻まれ、目頭に涙が溜まり、乾いて半分開いた唇から溜息と一緒に後悔の言葉が漏れる。ああ、この人は悲しんでいる。私のせいで悲しんでいる。
「ねえ、どうしたの」
わかっていて私は聞く。彼は私とのことを後悔しているのだ。それ以外に彼が悲しむ理由はない。
「奥さんに勘付かれたの?」
彼は黙って首を振る。その拍子に涙がこぼれる。私は裸の腕を伸ばして彼の涙に触れる。彼は私にされるがままに泣き続ける。涙がさらさらと指の皮膚を滑って私の心を潤していく。
「それならどうしてそんなに悲しそうにしているの」
彼は何か口の中でもぐもぐ呟いた。
「聞こえないわ」
「君は平気なのか」
「平気じゃないわ」
私は彼の言葉より彼の涙に夢中だった。彼はますます俯いて自分の腕に顔を埋めてしまった。彼は優しい、自分の悲しみを私に伝染させまいとしている。私はここで嘘の涙を流すこともできる。でも、それでは涙が邪魔で彼の泣き顔が見れない。私は今日は泣くのはよした。
「平気じゃないわ。あなたが悲しむのを見て私が平気でいられると思っているの」
そうだ、あなたの悲しみで私の心に何かが流れ込んできている。あたたかい何か。
「僕は君を愛しているんだ」
「嘘ね。ちょっと好きなだけよ」
何度かキスをして心が通じたと勘違いしているだけ。誰かに触れたいときに傍にいたのが私だったというだけ。それでキスをしてちょっと好きになっただけ。
「本当だよ。毎日君のことを考えているんだ」
「嘘だわ。私と会う前には、そのときにはいつも奥さんのことを考えていたんでしょう。それをちょっと私にすり替えたのよ。私のことを考えているんじゃなくて、手近で似つかわしいイメージを選んで当てはめているだけ」
彼は自分の腕から顔を上げた。涙の流れた跡がはっきりとわかる。彼はその両腕を伸ばして私の顔をつかまえた。
「違う。本当に君のことしか考えられない。愛している。それなのに君はそうやって僕の言葉を本気に取ろうとしない。僕のことを見つめながら僕以外のことを考えている」
それが悲しいんだ。彼の瞳からまた涙がこぼれ落ちた。
「それはあなたの我儘よ」
私はあなたじゃない。私の心があなたの心より冷たいことがわかっても、あなたには何もできない。あなたは悲しむだけ。私はその悲しみを受け止めるだけ。そのあなたの悲しみが私の中に流れ込んでくる。私のことを愛しているという優しいあたたかい言葉、あなたの涙、何よりその瞳。私もあなたを愛していると言いたいのだけれど、心の中の私の言葉は何か嘘の香りがした。
「ねえ、もういい加減自分と仲直りなさいな。あなたは自分のために生きるのよ。一時の感情に流されて愛なんて大切な言葉を私相手に安売りするものじゃないわ」
私の心に何かあたたかいものが流れ込んでくる。ああ、これは彼の心だ。涙と言葉を濾過された純粋な悲しみの感情。彼の心臓からあたたかい血液が私の血管に流れ込んでくる。悲しみは人間の血をあたためる。そして誰かの心を蘇らせる。
「私はあなたが好きよ」
口をついて思わず言葉が出た。
「私のために悲しんでいるあなたが好きよ」
私の心に血を通わせようとする親切なあなたが好きよ。
「それだけじゃいけないのかしら」