陽だまりの子

Child In The Sun

067. 扉

腫れ上がった目蓋を押し上げてトランクの中に荷物を詰め込む。この家で使っていた必要なものはすべて持っていかなくてはならない。私は今日、この家を出て行く。

今トランクに詰めているのは今、自分が捨てられない荷物だ。明日の私に必要かどうか、混乱した今の頭では判然としない。明日になれば冷静になれるのか、しかし明日の朝にはもうこの家を出る。だからもう今はただ詰め込むしかない。ああ、もう一回り大きなトランクを買っておけばよかった。たった2週間の海外旅行に出かけたときも荷物が入りきらなかったのに、家を出て行く今、このトランクに荷物が入りきるわけがない。洋服はなるべく持っていくようにしよう。新しい土地で好きな洋服屋がすぐ見つかるとは限らない。お気に入りのタペストリーも持っていこう。これは初めて一人暮らしをしたときに買ったものだ。魚に羽が生えて空を飛んでいる模様のマグカップ。少しひび割れてきているけどまだ使えるはず。量がちょうどいいので、これを捨てる気にはなれない。

そう、これからは一人で暮らすのだ。昨日まで私と一緒に暮らしていた人は、もうここに戻らないと言ってきた。私が何をしたのかとか、私の何が悪いのかとか、私のどこが嫌いになったのかとか、自分の非を指摘してもらおうと相手に詰め寄ったが相手から答えはなかった。当然だ、私に非があるより先に彼に変化があって、その変化の中で私が許容されなくなったのだ。だから私の非が白日の下に晒されても、天まで時をさかのぼって事態を収拾できるわけがない。そうだ、彼が正しい。私だけが取り残されて元の流れに戻ろうと足掻いている。水の流れは既に大きく変わっているのに。

元の流れに戻ろうとも、水の流れは大きく変わっている。それなら次の水の流れを探すしかない。時間はない。すぐ水にありつかなければ私は干乾びて死んでしまう。水の流れが何か、自分を押し流すものが何かはまだわからないが、今の私に必要なのは自分の心もろとも次の土地に連れていく強い、何者かの意志の力なのだ。私に羽が生えて水の流れの上を渡っていけたらいいのに、水をにおいで嗅ぎ当てるモグラの嗅覚が私にあればいいのに。だが私に羽はなく、水の在処もわからない。それなら今、この扉を開けて次の土地を自分の目で探すしかない。ここにもう水はない。ここにもう意思はない。

トランクに荷物を詰めた。半分以上の荷物は入りきらず、私はまた途方に暮れる。夜が明け始めている。私はダンボールをひとつ用意すると、入りきらなかったものをすべてダンボールに放り込んだ。油性マジックで「処分してください」と殴り書く。こうしておけば優しい彼は分別して捨ててくれるだろう。私が混同してしまっていた彼に必要なものもピックアップしておいてくれるに違いない。ひび割れていたマグカップを流しに置いて私はトランクに鍵をかけた。一度で鍵が閉まらなかったのでまた荷物を抜いた。今度は鍵が閉まる。腫れ上がった目蓋が熱く重いが、朝の冷気で収まるだろう。私は玄関までトランクを押して出ると、コートの襟を立ててドアを開けた。夜明けはもう終わり、雨上がりの薄明るい朝がさざ波のよう、足元に忍び寄ってきている。列車の汽笛が聞こえてくる。後はもう飛び乗るだけだ。