陽だまりの子

Child In The Sun

066. グラス

電動扉が雨に塗れてその口を震わせている。もう20分以上の時間が過ぎた。雷がここからちょうど一つ先の信号に落ちたそうだ。車内のアナウンス。電車の中は静まり返り、電動扉の足元にホームの屋根の隙間から注ぎ込む雨で水溜りができている。文庫のヘミングウェイを読みながら、私はぼんやり今日同僚から聞いた話を思い出していた。もう10年も前に別れた恋人が私に会いたがっているそうだ。

「『ふと彼のことを思い出すの。思い出すと会いたくなるけど、連絡はしないようにしてる』」
私は気のない返事をして煙草を吹かしていた。
「で、よくよく聞いてみたらその相手がお前だったんだよ」
「それで、彼女とは寝たのか」
いいや、と同僚は首を振った。
「お前と兄弟になるなんて御免被るよ」
10年前の私の恋人は今ではすっかり肥え太り、脂ぎって毛穴の開いた押し出しの強い女になっているそうだ。10年前、四肢は枝のように細く、彼女の皮膚はいつも冬の最中のようにそそけだっていた。人は変わるものだ。
「だけど、ちょっと可愛らしかったよ。お前との思い出を話すときの懐かしそうな顔とか、連絡しないようにしてると言ってからぐっと堪えたような表情とかさ」
「お前がそんな詩人だったとはね」
「よく言うぜ。その女と付き合ってたのは誰だよ」
そうだ、俺だ。灰皿で煙草を揉み潰すと、ライターを取り出して新しい煙草に火を点けた。
「彼女、煙草吸ってた?」
彼女と別れた理由はもう思い出せない。だが、心の壁には彼女に関するもので嫌な思い出はこびりついていない。ただ、退屈な時間に倦いたのだろう。情熱を取り上げられた若者にとって、過ぎ行く時間は残酷なものだ。彼女が今、煙草を吸い酒を飲んで時間を潰す術を知ったことを人づてに聞いて、私は隔世の感を新たにした。

電動扉に雨粒が伝い、遠雷がアナウンスに混じって二重に聞こえる。10年前、彼女は煙草どころか酒も殆ど飲めなかった。私が酒を飲み始めると、彼女は冷蔵庫から赤いイチゴ酒の瓶を出してきて、私の隣で小さなグラスでゆっくり飲んでいた。なぜ酒を飲むのか、そんなジュースみたいな薄い酒を飲んでもどうしようもないだろうと聞くと、彼女は頬を真っ赤に染めてこう応えた。
「一緒にお酒飲んでいたいの」
ああ、それは愛らしかった。赤いガラス瓶から注ぐ黄色のイチゴ酒を飲んで笑っていた彼女。小さなグラスを握り締める優しい手。恥じらいと酔いで紅に染まる笑窪の影。私もそれをふと思い出すことがある。だが、私が思い出の中で愛する彼女は、もうこの世にいない。いかに時の倒錯を繰り返しても彼女が昔の姿を取り戻すことはない。また、あの優しい彼女のイメージを愛する限り、私が今の彼女を愛することはけしてないだろう。私は今も、昔もあの優しい手を愛している……。電車の窓に伝う土砂降りの雨の雫が、グラスの中のイチゴ酒のさざめきを呼び起こす。帰らぬ思い出はとても甘美だが、私には今の暮らしがある。現実と夢と鏡合わせにしても、映るのは今の自分の鏡像だけだ。自分が振り向くより早く、鏡の中の過去は私に背を向けてしまっている。
「現在と夢を考え合わせても」
過去は今の私に見合う存在とも思えない。私は慎重なのだ。彼女のように、ふと思い出した人間のことを口の端に上せたりはしない。遠雷が聞こえてくる。電車はまだ動かない。過去は水溜りのように足元で静かに広がり、私の裾を捉えて離さない。