陽だまりの子

Child In The Sun

062. 嘘

監房のうちでは監房に入ったことのない一般の人間が信じられないほど人間的な会話が交わされる。囚人達は思い思いにあだ名を付け合い、それがどれほど自分にそぐわないあだ名でもそのあだ名の示す役割を演じようとする。それは一種のゴッコ遊びだからだ。数少ない、監房のうちでの遊戯、娯楽。チェスにもポーカーにももう飽きてしまった人間は、演劇に走ったのだ。

「不安が続くのです」
「何についての不安だい?」
「不安の対象は様々です。自分の伸びすぎた爪に対してだったり、自分のむさくるしいこの面体(と、ジョーカーは自分の頬を撫でる)についてだったり、自分自身についての不安が大部分を占めます。でも、その自身の不安はそれほど重荷にはなりません。それ以外の何かについての不安が大きな重石となって僕の心臓を圧迫するのです」
「君の心電図に異常はなかったがね」
「血圧が低いことと脈拍が少ないのは遺伝ですからね」
「そうだ」
「でも、それだけが正常と判断する(ジョーカーは右手の指を点に差し向けた後に、自分のこめかみに当てる)基準なのでしょうか」
「君の不安は、自らの思考が批准している基準についての不安なのかね(ドクター落ち着いた表情。万年筆のインキを足す)」
「そうかもしれません。いや、それすらわからないのです。ただ、この心臓を締め付ける感覚が自身に不安の存在を知らしめるのみで、思考する暇はないのです。ほとんど反射に近い……、僕の不安は反射なのです。何かを知覚することで、熱湯に触れた手を咄嗟に引っ込めるように(ジョーカー、パントマイムで熱湯に触れる様子を演じる)、平常心が姿を消して不安の焼け爛れた皮膚が残るのです。その不安がずっと続いている……」
「ジョーカー」
「何ですドクター」

「この“医者と患者ゴッコ”のうちで、君は医師役の『ドクター』(これが僕のあだ名なのだが)に何を伝えようとしているのか。患者役の人格が知覚するその焼け爛れるような不安を、役柄の人格から人格へ伝播させようとしているのか」
「違う。これは『ジョーカー』の相談だ」
「それなら、ここでその相談をするのはお門違いだ。お宅の監房付きの本物の医者に診てもらうんだな」
「あんたは『ドクター』だろう」
「そうだ」
「『ドクター』ならドクターらしく、最後のコメントをつけなよ」
「そうか…」

ドクターはひとつ咳払いをした。
「ジョーカー君、君のその不安についての問題はどうやら私の専門ではないようだ。私の専門はこの監獄内での笑いの存在とその効用についての研究だからね。愉快な感情をもたらす演劇の質の向上についての相談にならいつでも乗るよ」
「紹介状は書いていただけますか」
「勿論だとも」
ドクターはメモにカルテよろしくジョーカーの病状を書き付けて、最後に自分の本名をサインした。
「ありがとう、『ドクター』」
ジョーカーは自分の独房に戻ろうと椅子を立った。

「そうだ」
そのジョーカーの声に、ドクターは顔を上げた。
「演劇の質の向上について言うなら、カルテの最後に自分の本名をサインするのは興醒めだぜ。ここではあんたは死刑台に上るまで『ドクター』なんだから」
ジョーカーは部屋を出て行った。ドクターは囚人服の襟を正して、カルテ代わりのメモ帳を片付けるとドアの向こうに向かって呼びかける。

「次の方」

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