陽だまりの子

Child In The Sun

051. 路地

蝋梅の盛りを見逃してしまった。家から駅に向かう途中に、小さいながら枝振りのしっかりした蝋梅の木があった。家の主からその気が蝋梅であると聞いて花のときをここ半年ほど楽しみにしていたのだが、日々の雑事に忙殺されてついぞ見ずにしまった。この小さな路地に小さく黄色い花がまだ冷たい朝の空気にきりっと引き締まって咲いている様子をぜひとも見たかったのだが残念だ。また一年待たねばならない。

この木が蝋梅であると教えてくれた主にも悪いことをした。何となく、その日から私は蝋梅の咲く路地を避けるようになった。白い梅、赤い梅、桃に桜が咲いても私はまだその路地を通ろうとはしなかった。

今日、連れの犬が走ってその路地に迷い込んだ。梅雨の近い重い雲の下で萌え出でたばかりの緑が一層濃く見える日だった。私は蝋梅がそこにあったことも忘れて、犬を追いかけた。犬はゆっくり歩いて立ち止まったり、突如として駆け出したり、ずんずん路地の奥へ入っていく。「タロ、タロ」連れの声が次第に甲高くなる。私はやっとのことでタロの引きずるリードの端を踏んで止めた。そこはちょうど蝋梅の隣だった。

一瞬、そこに蝋梅があることに私は気づかなかった。三ヶ月ほど前には毎日通った道だ。見失うことはまずない。それでも私が気づかなかったのは、蝋梅のある路地に立派なコンクリート塀ができあがっていたからだ。まだまっさらに新しく、一度も雨を受けていないよう。私はなかば茫然としてコンクリート塀に手を伸ばした。塀は冷たかった。蝋梅の木は柔らかな新芽を出して、塀の向こうから私を覗き込んだ。私は蝋梅に手を伸ばした。だがコンクリート塀に隔てられ、その新芽に指先が届かなかった。

梅雨の一滴目が天から落ちてくる。目の前のコンクリート塀がみるみるうちに黒く染め上げられていく。タロが足元できゃんきゃん鳴いた。蝋梅の木は雨の中一人だけ様子を変えず、黙って雨を受けている。新芽はまだ小さすぎて、雨をその手に溜めておけない。だからこの雨の中、雨粒の間を縫ってひとり、濡れていないように見える。私は花の盛りを見ずに時が過ぎたことをまざまざと感じた。目の前にある小さな蝋梅の木がこの路地でひとり時を守っている。

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