陽だまりの子

Child In The Sun

049. 反射

マグは戸惑っていた。この町から自分ひとりが出て行くことにこんなにもたくさんの理由が必要だと思いもしなかったからだった。彼はまず水道局に言い訳をし、ガス屋と電気屋にガスと電気を止める日時を秒単位まで知らせ、引っ越し屋には本当にこれ以上は何も隠してはいないことを示すために、7年開けていなかったトランクまで開く羽目になった。そして、どれにも理由が必要だった。この日にこの家を出て行く理由、この家の電気とガスと水道を使わなくなる理由、このトランクがなぜ必要なのか、トランクを買った理由まで説明した。マグは疲れてしまった。この27日にはこの町を出て行かなくてはならないのに、僕は28日から次の町で暮らしていく気力がもう残っていない。困ったことに、彼にはまだ荷造りをするという任務が残っていた。義務ではない。引っ越し屋から課された任務だ。任務を遂行するよう、彼は仰せつかったのだ。27日の午前9時59分までに。

マグは恋人に電話をしたかった。家で湯を沸かして風呂に入り、外のパブで一杯引っかけて柔らかいベッドにシガレットのにおいをぷんぷんさせながら飛び込んで、そのまま朝まで目を開きたくなかった。しかし、マグは小市民だった。今が26日の午後11時23分で、今から徹夜で、しかも大急ぎでやらなければ荷造りが間に合わないこともわかっていた。それに、「僕はそんな柄じゃない」。マグは自分のことをよく知っていた。自分のことを良く知るために、彼は鏡を磨くことを欠かさなかった。マグはお気に入りのオレンジオイルの洗剤を手にバスルームに入った。鏡を磨くために。

知った顔がそこにいた。鹿爪らしい顔して、鏡に残った最後の洗剤の泡を睨みつけている自分がいた。笑えばいいのに、恋人は彼にそう言った。水道局にもガス屋にも電気屋にも引っ越し屋にも笑ってやればいい。「恋人が朝まで離してくれなかったんだ。だから、さ」って。私のせいにすればいいのよ。マグは水道局にもガス屋にも電気屋にも笑ったことはない。引っ越し屋にも四六時中頭を下げていた。どちらが客だがわかりゃしない。マグは戸惑っていた。鏡を磨くべきか否か。鏡を磨くというこの一挙動のために荷造りが間に合わないかもしれない。明日の27日、午前9時59分までに。鹿爪らしいマグの表情がいっそう厳しくなるのが筋肉の引き攣れと鏡の虚像でわかる。マグは鏡に手を当てる。鏡は冷たく、マグは鏡はどんな表情をしているのかとふと考えた。この7年間、自分ひとりの表情を映し続けてきたこの鏡。鏡はこの僕の表情をどう見ているのだろうか。明日の引っ越しでこの鏡はこの部屋に取り残される。そして、次のこの部屋の主人の表情を映すのだろう。この鏡はどう考えているのだろう。この鹿爪らしい表情が、毎日鏡を磨き続けていたこの僕がこの部屋を去ることに。鏡は相変わらず鹿爪らしい表情をしていた。明日にはこの鏡だって割れてしまうかもしれないのだ。鏡だってそんなに鹿爪らしい表情ばかりしていることはない。マグは最後、にやっと笑うと鏡を叩き割った。