陽だまりの子

Child In The Sun

047. 左利き(1)

夜道は怖いので、私は人通りの多いバス通りを通る。会社帰りはいつもこの道を歩いている。一日目、私は聞かない音を聞いた。規則正しいドン、という音と、ぽんぽぽんぽぽぽぽぽ、という柔らかい音。音は間延びしたり性急に次を急いだりしながらずっと続いている。私はバス通りの真ん中で立ち止まり、音の所在を探した。聞いたことがある、でも何の音か思い出せない。何を探せばいいのかわからない。私は立ち止まって音の所在を探す。バスと車が私の横をかすめて通る。

見つけた。男の子だ。男の子はグローブを左手にはめて、塀に向かって投球練習をしている。ドン、という規則正しい音は彼のボールが塀に当たる音。ぽんぽん、という柔らかい音は彼に向かってボールが弾んでいく音だ。彼はグローブに玉を込めて、高く自分の頭上に差し上げる。真っ直ぐに伸びた彼の両腕と、ぴんと張り詰めた胸板。次の瞬間、肩と腹が動き腰が回転して手元からボールが離れる。ドン、という鈍い音。ぽんぽん、という柔らかい音。街灯もない暗い自転車置き場の片隅で、彼はその動作を繰り返す。二日目、また彼は練習していた。三日続けば本物だろうと考えていたが、三日目は生憎電車のない時間に家に戻ることになり、タクシーで別の通りを通って帰宅した。そんな日が一週間以上続き、私はすっかりい彼のことなど忘れてしまった。

ぐったり私は背中をタクシーのソファに預けて目を閉じている。リアウィンドウを叩く激しい雨の音。今日は雨から雪に変わって、その雪が今度は霙に変わった。それが昼ごろ。今はまた雨が降っている。あまりにもウィンカーの音が長く続くので、私は運転手に声をかけた。
「事故ですね…」
「別の道を行ってもらえますか」
救急車が赤いランプを点灯させて私のタクシーを追い抜いていく。私は次の信号を左に曲がってくださいと運転手に頼むと、今度は目を閉じずじっと窓を叩く雨粒を見つめていた。少年を見かけたあのバス通りに差し掛かる。信号待ちのわずかな間、私は窓を開けてみる。じっと耳を澄ませて音を探した。バスがすれ違う。眩しいヘッドライト、吉祥寺行きの文字。乗っている乗客は一様に疲れきっている。雨の音に混じって、規則正しいあの音が聞こえてくる。
「運転手さん、あそこで男の子が練習してるんです」
「そうですか」
「見てください。この雨の中なのに」
重ねて言う私に運転手はちょっと横を向いて、すぐ正面に向き直った。
「私には何も見えませんがね」
「音が聞こえてるんです」
ボールの弾む音が。
「私には聞こえませんが……」
白いボールが夜目にも鮮やかに一直線に塀に向かっていく。光線が彼の手元から放たれて、塀に当たると火花となる。火花の一閃が彼の足元に帰っていく。
「本当なんです」
私は振り返るとき、タクシーの座席に擦って右手の甲に傷を作った。信号が変わり、車が発進する。
「彼は左利きなんですよ」

自分の手の甲からは血が滲んでいる。私も野球が好きだった。私にもたくさん好きなことがあった。好きなことのためならどんな傷を負ってもいいと考えていた。だが、それは違った。私の心は私の思うほどに強くなかった。心は体の皮膚よりずっと薄い膜一枚で守られているだけで、その膜は少しでも擦れば破れて血を流した。その実、中身はシャボン玉のように何も入っていなかったのだが……。あの少年にも、今の貴重な青春の時間をすべて犠牲にしてもよいと思えるほど、大事な野球という夢があるのだろう。私は自分の手の傷をそっと撫ぜて考える。彼の心は私より強いといい。願う夢のすべてが叶うと思っていた時代など疾うの昔に過ぎてしまったが、願わないことにはすべての夢が始まらないのだ。