陽だまりの子

Child In The Sun

040. 泣き笑い

断薬からだいぶたってから、以前より不安に襲われる頻度が高くなってきた。断薬直後は何ともなかったのに、二月も経ってから以前よりひどい不安に駆られることが多々ある。医師に相談しようとも考えるが、今の今までじっと感情の波に翻弄されながらも耐え忍んできた私の脳細胞が声を上げてそれを拒否する。「思考を鈍らせるあの忌々しい薬は二度とごめんだ」と。そうだ、断薬を望んだのは私だった。私は耐えられなかった。鈍重な思考の波に揺られながら、ぼんやりと天空を見つめるだけの日々に私の自我は耐えられなかった。如何に激しい波のうちでも、たとえ自分が波に抗いきれず流されるだけだとしても、この手で波を切って果ての島を目指していたかった。だが、この頬を落ちる涙は何だろう?梅雨が明けようとして空が水色に輝いている。私は職場への道を急ぎながら、瞼から溢れ落ちる涙をとどめられず、横断歩道の最中で立ち止まった。響くクラクションと干からびた紫陽花、私がたどってきた道が夏の白日の下に去らされて私はもう動けなかった。

私は自分の悲しみを自分の堆肥にしようと土に埋めた。悲しみは土の中で腐り、私の栄養となるはずだった。ただ、水は土に吸われても、悲しみは悲しみのまま干からびて残り、私の体を伸ばすどころか、私の根を捻じ曲げている。私は悲しみをそのまま持つことができなかった。浄化される日を信じて土に埋めた。悲しみがいつか自分の糧となる日を信じて、自分のこの両手に力を与える日を信じて、土に埋めた。だが、土は私のものではない。土はそれを浄化することを拒んだ。土が堆肥にするのは屍骸だけ。私の悲しみは生きていたからだ。悲しみは私の一部であり、心臓から流れる血を受け止めて声を上げ続けた。私はどうすればよかったのだろう。

この悲しみを、不安を自分から切り離そうとすることは、自分の手を落とすことに等しい。私はこの感情を失えば波を切って次の海岸を目指すことはかなわないだろう。自分の体から分離しきれない悲しみという私の両手。今は肩から重くぶら下がっているだけだが、いつかこの手が再び力を取り戻し、苦難という波を切って進む日がくるだろう。私は前に進むためにこの両手が必要なのだ。そのためにはこの悲しみを悲しみとして、心から悲しむことが必要なのだ。それがこの両手に指先まで血をめぐらし、私の体を育てる糧となる。悲しみを殺して土にうずめるには、悲しみを今一度生かすことが必要なのだ。