陽だまりの子

Child In The Sun

035. 希望

道の端で本を売っている人間を、最近見るようになった。道を歩かず、じっとそこにいるのは、浮浪者と似非の托鉢僧と、風俗と居酒屋と宗教の客引きだけだと思っていたのに、違ったらしい。俺は半ば以上、嘲弄するように本を売る人間の目の前を足音高く通り過ぎる。俺には向かう先がある、俺には帰る家がある。だから俺は歩くんだ、このドブ臭いタイル張りの道を、踵を蹴立てるようにして誰よりも早く歩くんだ。

本を売る連中はしつこい。客引きのようにいつまでも俺から離れないというのではない。いつまでもそこにいるんだ。季節が変わっても、どんな天気の日にも、じっと同じ場所にいて(立っているか、座っているかは個々人によるが)、皆一様にじっとどこか一点を見つめている。行き交う人間の足をただ眺めているのではない、何かはるか先をじっと見つめているのだ。手にしている本は、自分で書いた本だろうか。ちゃんとした体裁のハードカバーの本もあれば、藁半紙をホチキスで留めただけのような安っちい本もある。だが、本の体裁は様々でも、本を手にしている人間の眼は、一様におかしい。どこか一点をじっと見つめているだけで、客引きのように声をかけるでもなく、托鉢僧のように鈴を鳴らすのでもなく、浮浪者のように吸殻を探して目玉を二六時中ぎょろつかせているわけでもない。どこを見ているんだと訊いてみようか。彼らは何と答えるのだろう。「本を売っているのだ」とは応えはすまい。

手ずから本を売る人間に帰る家はあるのだろうか。一冊も売れず、重い本を抱えて帰る日はどんな心持がするのだろうか。その彼らを慰める人間は、どこかにいるのだろうか。ドブ臭いタイル張りの道の上から、彼らは何を見つめている? 本を売って金を得ることが目的なのか。金で自分の本を評価されるのを待っているのか? 俺にはわからない。ただ、本を売る人間は雲間の切れ目より射し込む曙光のような何かを、じっと待っているのだろう。俺は、それを希望とは呼ばない。俺の求めるものは、金でも幸せでもないが、俺には向かう先がある。