陽だまりの子

Child In The Sun

034. 69

今日は十二円拾った。昨日は五十円玉をひとつ拾った。一昨日は七円拾っている。「日頃の行いがいいから、神様がご褒美をくれるのよ」幼稚園の先生はそう言っていた。しかし、そうだとすると俺にはさっぱり覚えがない。日頃の行い……、今日は格段よいことをした覚えもないし、する気も起きなかった。俺は今日、神に誓ってもいい、いいことなんてひとつもしていないんだ。

それならどうして何もしていない俺が、こうして金の恩恵に預かるのだろう。今日は世の中全体の平均が下がって、俺は比較的いい人間になったのだろうか。海面が下がるように世の中の良心の水位が下がって、幸福と不幸のブイが水と空気の接地面でゆらゆらしている。俺はそれを見下ろす岸辺にいたのだろうか。

よっぽどの金額でない限り、人は躊躇いなく金を拾う。金に名前はないので、拾ったらそのまま自分のポケットに収めてしまう人間が殆どだろう。俺もそうだ。それが悪いこととは露ほども考えない。金に名前がないのが悪いんだ。財布ごと落ちていたらまだ持ち主が見つかりようもあるが、金が裸で落ちていたのでは持ち主を探すなど土台無理な話だ。これは俺の言い訳ではない。お前だって是とする当然の理だろう? だから、この金を俺が受け取るのは当然のことなんだ。誰にも罪はないし、俺も咎を受ける必要はない。金は純然たる労働の対価だ、金で買える限りの幸福の対価なんだ。

そう、金は幸福の対価なんだ。金があれば大概の幸福は手に入る。あらゆる人間の欲望に対して今は応える人間がいて、そこに金が介在している。橋渡しをしている金さえあれば、人間の大抵の欲望は適えられるんだ。今日の十二円、昨日の五十円、一昨日の七円。。神様は俺に幸福が足りないと思ってわずかな金を俺の前に落とすのだろうか。だとすれば悪い冗談だ。それとも、俺は日々の僅かな幸福と引き替えにこの僅かな金を得ているのだろうか。三日で六十九円。俺の三日間で失った幸福はどれほどだろう。幸福の量は金では計れない。