陽だまりの子

Child In The Sun

025. 蜻蛉

彼女が僕に振り向いてくれないのはどうしてだろう。毎日、僕は彼女の後ろを歩きながら考える。彼女は歩くのが早くて、ときどき僕は遅れてしまう。彼女の姿を見失ったこともある。その日は僕は一日自分を責め続ける。
「彼女が振り向いてくれないのなら僕は彼女についていくしかできないのに」
名前も知らない彼女を僕は毎日見送っている。一度、彼女が忘れ物をしたのか突然踵を返して僕の方へまっすぐ歩き出したときには、どぎまぎしてうつむいてしまった。彼女は僕を知らないのに、彼女の顔を見ても差し支えないのに、僕は彼女の顔を見れなかった。
「僕は彼女の横顔と後姿しか知らない」
彼女はいつも朝のバスで海の見える窓際の席に座りラジオを聴いている。誰が乗ってきても誰が降りても知らない顔だ。凪の日も泡立つ波の日も、雨の日も霧の日も彼女はバスの窓越しにじっと海を見ている。僕は彼女を見つめている。
「僕の好きな鳶色の瞳がいつか青く染まってしまわないか心配なんだ」
彼女の瞳がときどきしっとりと潤んでいるのを見る。それだけで僕の一日は台無しになる。ラジオで悲しいニュースが流れただけならいい、だが彼女自身に何かあったのかもしれないと考えると額が冷たくなって首筋にじっとり汗をかく。
「彼女が何を考えているか知りたい。それが知れればどんなにいいだろう」

今日はバスが混んでいて、彼女の隣以外の席が空いていなかった。僕は周りの乗客の視線に負けて爆発しそうな心臓を握り締めながらゆっくり彼女の隣に腰を下ろした。彼女が心持ち自分の腰を窓に寄せる。無意識に。彼女の瞳はまた海を見ている。バスが発車する。
「あ、トンボが」
彼女の口から本当にその言葉が出たのか疑わしく、僕は疑念と動揺で瞬きを二度した。彼女の声を聞いたのは実にこれが初めてだった。
「こんなところに……」
彼女の視線の先には波頭の影とほとんど同化して視認するのに時間のかかる小さなトンボが飛んでいた。体は細く長く、羽は大きく、複眼はじっと前をにらんで、ついついついと車の影を飛び越しながら、軽やかにバスに併走している。
「見ました?」
彼女がこちらに振り返った。鳶色の瞳が僕を見ている。薄桃の唇が開いてもう一度繰り返した。
「トンボが飛んでいたのを見ました?」
「はい、見ました」
「珍しいですね。こんな海の近くに」
川の近くにしかいないと思ってました。僕は僕の正面で動く彼女に夢中だった。唇の間から小さく白い歯が覗く。
「まだいますね」
「ええ、まだ見えます」
小さなトンボが小さな影を飛沫のようにアスファルトの上に撒き散らし、飛翔してゆく。
「秋も終わりだというのに」
彼女はそう言い終わると、くるりとまた窓の方に向き直ってしまった。ああ、また後姿だ。横顔だ。せっかく彼女の顔を正面から見たのに。これではまた同じ日々の繰り返しだ。
「トンボは前にしか飛ばないそうですよ」
熱した頭で必死にひねり出した言葉がこれだ。僕は自分に絶望した。
「前にしか飛ばないの……。それならこのバスが停まれば追い越されてしまいますね」
そうだ、立ち止まってはいけない。彼女は窓から視線をはずさない。
「僕は、あなたが好きなんです」
僕の声は低くかすれていた。バスの排気音にタイミングが合わなければ、彼女は聞き逃したはずだ
「いつから?」
「春からです」
「もう秋も終わりだというのに」
うつむいて彼女は視線を上げない。そうだ、彼女と会ってからもう半年が過ぎた。僕はこの半年、ずっと彼女を見つめてきた。
「ずっとあなたのことを考えていました。毎日、バスに乗るたびにずっとあなたのことを探していました。あなたが何を見ているのか知りたい、何を考えているのか教えてほしい。僕は何にでも答えられるほど器用じゃないけど、あなたにずっと触れていたいんです」
「本当にそう思ってますか」
「ええ、あなたが振り向いてくれないなら僕はずっとついていきます。どこに行くのか知れなくてもずっとついていきます」
声の震えが収まらず、僕はそれを誤魔化そうと早口になる。本当に、あなたが好きなんです。
「どうして私なんですか」
「わかりません。初めてあなたを見たときから」
僕は、あなたが好きで。
「好きで、どうしようもなくて」
あなたに触れたいとずっと思っていた。あなたのことを少しでも知りたいとずっと思っていた。あなたに触れて、あなたのことを知って、それでどうなるものでもないけれど、あなたを求める心ばかりが膨れ上がって、もう苦しみも楽しみも、幸福も艱難も、その前には消えてしまった。
「手を握ってもいいですか」
彼女は黙って白く小さな手を差し出した。僕はそれに自分の手をそっと重ね、彼女の瞳をじっと覗き込んだ。鳶色の瞳の中に僕の瞳が映っている。僕の瞳の中にまた彼女の瞳が映っている様がまた映りこんでいる。幾重にも広がる彼女の瞳の中の世界に、もう海もトンボもいなかった。僕だけがいた。僕は彼女の手が震えているのを感じた。僕は彼女を抱きしめたかった。バスが停車する。予期せぬ振動に彼女の体が大きく傾ぐ。僕は初めて彼女の髪が鳴るのを聞いた。バスが停まるのを待って僕は彼女の髪に口付けた。