陽だまりの子

Child In The Sun

024. ごまかし(1)

人に言わせると、私は自由を標榜した人間であるらしい。自分としては組織に寄りかかりがちの人間だと常日頃から感じていたので、随分意外なことを言う人だと思った。

大学時代、取っていた倫理学の授業で「他の自由を阻害する自由は自由ではない。純粋たる自由は他の自由を束縛しないものだ。自由は何者からも自由ではないと自由ではない。それは自分からであっても、他者からでもあっても。」と演説する教授の表情を眺めながら、これでは自由は力学になってしまうと炭酸水を飲みながらノートを取っていた。

自由はよく力と比較される。圧力に屈しないことが自由の象徴ととらえられたり、暴力を否定することが自由への道だと言われたりしている。ただ、それは自由が何かという自由の定義とはたいして関係がない。自由そのものの存在を力と比較して証明しようとしているものだ。不自由という言葉はよく聞くが、それは何かに阻害されているという状態を示すだけで、その状況が自分自身の状態なのか、それとも他者からの力を示しているのかということが不分明だ。

自由が何かということを、ずばり定義した言葉を私はほとんど聞いたことがない。ならば、私にとっての自由は何かと問われたとき、私も答えに窮す。自由とは何なのだろう。他人から「自由を標榜した人間」と言われる自分も何なのだろう。

ありきたりの表現だが、私は自由はもっと空気のように自然にあるべきだと思う。今の人間にとって、万人に平等に与えられ、その存在をほとんど意識しないもの。それが自由だと思う。人は自由を意識しなければ、不自由を感じず、他者の自由を阻害してまで自分の自由を守ろうとはしないだろう。他者の自由を阻害するもの、それは形は違いこそすれ暴力に違いないというところは教授と意見を同じくするところだ。

教授は、「自由は進化する。自由は定義できないのかもしれない。」とも言っていた。自由がただ人間一人のものであるのならば、定義もできるだろう。意図的に進化させることもできるかもしれない。ただ、自由は力学でも科学でもない。もっと、本当に「自由」なものだ。定義という束縛も、進化という発展もせず、ただそこにあるもの。普遍的にそこにあるもの。自由は人間にとっての死と非常に近い位置にある。逃れることもできず、あることを意識もせず、その存在をただ受け入れるもの。自由がそうあれば、私はいつも自由だ。すべての人間に自由は平等に与えられているという話にも納得がいく。

あの授業から4年、視界を満たしていたあたたかい霧が冷たい風で吹き払われた思いがした。