陽だまりの子

Child In The Sun

004. 鍵

「殴られたままで黙っている女だと思ったか」
足下の男の頬に唾を吐きかけて、私は自分の手を開く。指の間から、男の髪がばらばら落ちる。毛根には血がこびりつき、私は快哉を叫んだ。男は震えている。まだ立ち上がるには時間がかかる。
  からんできたのは男が先だ。乗り換えの駅で降りるときに、自分より一歩先に出た私が気に食わないと、私の左脹脛を蹴飛ばした。痛みはなかったが、公衆の面前で後ろから足を蹴られたということがひどく私の気に触った。私は、そのまま男の後をつけた。乗り換えの電車で、わざと隣の席に座る。男の落ち着きは忽ち消し飛び、口のうちで「何だ、この女」と呟いているだけだ。私はじっとりと男を観察する。
  くたびれた男だ。その印象は私の足下で蹲っている背中を見ているとますます強くなる。ウールの安い重たそうなコートを着て、靴は新しいが一見して合皮だということがわかる。紐が新しいから、より合皮の贋の光が目立って仕方がない。靴下は白。生成りの生地だ。今日は日曜だ。競馬にでも負けたのだろうか。頻りに爪を噛みながら、携帯をいじっている。そして、その横目で私をちらちら見ている。落ち着きのない。私の両の拳に力が漲る。
  私の降りる一つ前の駅に着いた。電車が静かに止まる。私は席から立ち上がるなり、男の髪を掴んで、電車の外に引きずり出した。男が何か叫びながら、私の足にしがみつく。私も一緒に倒れる。その勢いで、男の髪が音を立てて抜けた。いや、私が男の髪を頭皮から引き剥がしたのだ。そして、男は今、私の足下で蹲っている。
「殴られたままで黙っている女だと思ったか」
私はもう一度叫んだ。その途端、男が立ち上がって、私につかみかかってきた。私は、咄嗟に後ろに跳びずさると、自分の家のキーを手に持ち、キーホルダーを拳の中にして、強く握り締めた。こうすると、シリンダーに入れる部分だけが指の間から突き出す。
  男がまたつかみかかってきたが、私は恐れない。7倍のスピードで心臓がビートを刻み、呼吸は浅くなり、一瞬にして首筋から汗が噴出した。私は、今人を殺す。
 キーの飛び出した、光る拳を、私は男の顔に向かって真っ直ぐに突き出した。電車が発車する。