陽だまりの子

Child In The Sun

003. 音楽

一日の終わりに隣の部屋を気にしながら、そっと楽器を取り上げる。日によって、楽器はウクレレだったりブルースハープだったり、ギターだったりするのだが、することは変わらない。自分の頭に残っている楽譜から曲を選んで、メロディを断片を手元の楽器でなぞるのだ。覚束ない指のためにメロディが曲にならなくとも、自分の手から弾き出される音が、随分とおぼろになってしまった自分の幼少期の音楽体験を呼び覚まして、センチメンタルな気分になったりもする。しかし、悪い思い出ではない。私は音楽が好きだ、そう信じてきた。

しかし、一時期は楽器を手に取るどころか人の歌も人の声も聴けなくなったことがあった。自分の耳に音は届いても、それが音楽なのか人の声なのかも判別できない。自分の耳と頭が完全にばらばらになってしまったのだ。しばらくしてその症状は治まったが、未だにあの日の恐怖は巨大な壁のように立ちふさがり、私の思い出の道を遮断している。

それまで、私は音楽は私の生きる糧だと思っていた。音楽がなしで過ごした日なんてまさに皆無であったし、音楽さえあればその日の食べ物に窮していてもひもじいとも感じなかった。だから、私は音楽は自分の生きる糧と信じ、それに満足しきっていた。

ただ、あの何も聴こえなくなった時期を境として、音楽に対する考えは少し変わってきた。音楽がなくても、音が聴こえなくても私は生きていけるのではないだろうか。快復期に、私は自分が道路を平然と、イヤホンなしで歩いていることに気づいた。周りには音が満ちていた。八百屋の威勢のいい呼び声、車のタイヤ音、自転車のベルの音、人の足音、遠くで布団を干す音、そのほかにも木々の枝が擦れあう音や鳥の鳴き声、塀の上から飛び降りる猫のかすかな足音まで、すべてが私に耳にクリアに響いてきた。私はふと立ち止まってあたりを見渡した。自分の周りには私の今まで聴かなかった、聴こうとしなかった音が満ちていて、私はそれを自然に受け止めていた。

私はその日、家に戻ってCDプレーヤーの電源を入れようとしてふと思いとどまった。私は何も考えまいとして音楽に没頭していただけなのかもしれない。もともと音楽が好きだったという素質もあるだろうが、現実から目を、いやこの場合は耳を逸らしていたのだ。自分の耳に自分にとって心地よい音しか届かないようにして、自分の世界から現実を排除しようとしていたのだ。自分にとっての現実は心地よいものしか受け入れない。だから、理性以外の心からのコールに真剣に向き合おうとはしなかったのだ。そして、心と体が乖離して何も聴こえなくなった。あの日、すべての音がクリアに聴こえた日、私は何を感じたか?自分の知らなかった音に触れて心は高鳴らなかったか?私の心に血が通い始めたのに気づいただろう?私はいる場所はもう心地よい音だけが鳴り響く、狭いホールの中だけではないのだ。

私は楽器を弾くことが不得手なので、大概の音は耳障りでしかないだろう。だが、自分の手元から弾き出されるこの音が、明日にはまた違う音になっていることを考えると、手先に血の通う思いがする。