陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第10話

「私、きっと思い出すわ」
ペンギンのぬいぐるみを見て、小さな赤ん坊が声を上げた。赤ん坊を抱く母親は遼子にちょっと笑いかけて、言葉がまだ通じない赤ん坊にペンギンについて話し始めた。
「ペンギンは南極にたくさんいるのね」
遼子はなぜかその親子から眼を離せずにいた。
「あなた、自分がもっと小さいころ、母親から何か話してもらったことを覚えている?」
「ううん。言葉がわからなかったもの」
「そう。私たちは今、こうして話しているけれど、通じないことの方がたくさんある。その通じないことの大部分は役に立たないこととしてイメージとともに消えてしまうのよ」
「時が過ぎれば?」
「そうよ」
「私は今、忘れてしまいたいの」
そう言う遼子の目には涙がいっぱいにたまっていた。
「私、親に殺されかけた。でも母親が最後まで私を自分の傍から話そうとしなかったことが、本当は私はうれしいの。お母さんは私を見捨てなかったんだって」
「助けようともしなかったけどね」
皮肉を言っているのではないけどね、人魚はペンギンの方を一瞬見やって手を振った。彼女とペンギンには何か通じるものがあるらしい。
「お母さんは、私が一人で生きていけるとはとても考えられなかったのよ」
「混乱してね」
「だから、ああやって」
「誰にも頼ることをせず、海に飛び込んだ」
「お母さんがその道を選ぶまでに、迷って迷って探し続けた結果、ああなったのよ。私はお母さんを否定しないわ」
「でも、あなたは今忘れたいと言う。それはどうして?」
「悲しいからよ」
遼子の両眼から堰を切ったように涙があふれ出た。
「私、お母さんのことが好きだった。私にはもうお母さんがいないと思うだけで、これだけつらいの。ああやって仲のよい親子を見るだけでもしんどいの。涙が勝手にこぼれてきて止まらないの」
「一人で泣いているのはよくないことよ」
人魚は手を伸ばして、遼子の頬の涙を拭った。
「私にはあなたの運命が見えるわ。あなたは今、こうして実の母親と弟を失ったけれど、すぐあたたかい心を持つ人間に出会う。あなたの人生は失うことの方が少しだけ多いけど、得ることはほかの人間に比べてはるかに多いわ。あなた自身がそれに満足するかどうかは別だけど」
あなたは今、とても疲れているのだから泣くのはおよしなさい。
「ああ、そうね。長生きはできないかもしれない。好奇心が強いから、そのうちこちらの世界に来ることになるかもしれない」
「それが私の運命なの?」
「運命……。それは少し違うわ。運命は天体の運行のように世界全体を動かすもの。これは私たち人間以外の生物や魚や貝、牛や馬、空を飛ぶ鳥に与えられているもの。土にも草にも木々にも運命はあって、その住む土地をいかに変化されるかが私たちの運命。私たちは生まれついたときから自分の運命を知っている」
人魚は私の頭をもう一度撫でた。私はよりいっそう人魚の言葉の意味がわかるようになった。
「人間は命数しか持たない。それに従って生きているだけなの。私たち、運命を与えられて生きている生物には、自分たちの上に生きる人間たちの命数も日々の暮らしのうちで自ずと知れるのよ。あなたたち人間の命数は、私たちにとってこうして雨が降っていることよりはるかに瑣末なことで明白なことなの」
「物知りなのね」
「それは違うわ。知覚しているだけよ。暑い寒い、息苦しい、ほとんど五感に近い感覚で私たちは人間の命数を知っている。それだけなの」
「人間の命数って何なの?」
「命数? それは個々人の人生をいかに生きるか。それだけよ。人間同士はかかわりの中で生きているけど、実際は何事にも干渉されない」
 この檻の中のペンギンにも運命がある。彼らはあなたたちの心を動かすようにここに配置されて、水に飛び込むタイミングで人間の命数に悪戯する。
「私はあなたに助けてもらえないの?」
「助ける? 私はただ知っているだけよ」
「あなたが知っているのなら、私は忘れられるのでしょう」
「そうよ」
「私は今の水のイメージを忘れたい。母親と弟が沈んでいく様子を忘れたい。これはきっと私をずっと悩ませる悪夢になる。私の命数がいつ尽きるかは知らないけれど、まだ当分先のことでしょう。それまで私はできるだけしあわせに生きていきたいわ」
「それはいいことね」
「力を貸してくれる?」
「いいわよ」
 人魚は遼子の手の一方を自分の胸元に引き寄せた。
「あなたの命数もここにあるの。私の運命のうちに。私の運命であなたが今日のことを少しずつ忘れていくように命数を変えるわ。結果、あなたは長生きできなくなるかもしれない。命数を変えることは、つまりあなたの命を削ることだから」
「かまわないわ。人間は長く生きすぎよ」
そうして遼子は母親と弟とともに水に飛び込んだ事実を忘れたのだ。

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