陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第8話

 そうだ。思い出した。私は車で海に飛び込んだんだ。車を運転していたのは母だった。私は弟と二人で後ろの席に乗っていて、二人で飴を舐めていた。母親はガードレールの途切れている道路を何度も往復して、それから何か思い切ったようにアクセルを踏み込んで車もろとも海に飛び込んだ。
 車が逆さになって海に落ちていくとき、反転した重力の中で遼子の視界は常よりはっきりして、瞬間ごとの映像が静止画となって輪郭も鮮やかに一枚一枚写真をめくるように遼子の目の前に現れた。
 隣の弟の口から飴が飛び出すのが見えて、その次に唇の端から唾液の溢れる様子まではっきり見えた。遼子は飴を飲み込んでから、ハンドルに手をかけて車の窓を開けた。ハンドルを一回転させる前に車は海に落ちた。窓から水がどんどん入ってくる。遼子は懸命にハンドルを回した。隣の弟は水に落ちたときのショックで気を失っている。弟は助からない。母親は観念したようにハンドルに突っ伏して目を閉じている。
「お母さん、お母さん」
返事はない。遼子はそのまま海に沈むのは嫌だった。海には怖いサメがいると聞かされていた。サメに追いかけられて死ぬのは嫌だ。その鋭い歯にかかって死ぬのはもっと嫌だ。私は怖い目に遭って死ぬのは嫌だ。どうして私も気を失わなかったのだろう。もうこうなっては窒息の恐怖に怯えて死ぬだけだ。私は嫌だ。怖いのは嫌い。怖いのは嫌い。
 人魚が現れたのはそのときだった。半ば開いた車の窓から白い両手を差し入れて、私の体を抱え上げ、ゆっくり車の外に引き出した。
「恐ろしい目に遭ったのね」
私は息苦しさと驚きで目が回りそうだった。人魚の声は水中でもはっきり聞こえた。美しい鱗の光。鱗は絵本で見た薄い水色ではなく、群青の水の中では光をたたえエメラルドグリーンに光っていた。
「大丈夫よ。私が陸まで連れていってあげる。目を閉じて、じっとしていればいい」
人魚の鱗は水晶のように透明で、行き過ぎる魚の姿を映して七色に輝いていた。
「この近くに水族館がある。そこに連れていってあげよう。そこにはあなたと同じ年ごろの子供がたくさんいる。どの子も本当に楽しそうよ。私は毎日、あの中に入ってみたいと思っていたの。大丈夫よ。ペンギンのぬいぐるみをあげるわ。これで子供たちと遊びなさい」
私は弟はどうなったと人魚に聞いた。
「あなたのお母さんと弟なら死んだわ。かわいそうに。まだ若かったのに」
「あなたは見たの? 誰も助けに来てはくれなかったの?」
人魚は何も答えなかった。私が目を開こうとすると、そっと人魚の手が伸びてきて目を塞いだ。油の匂いに私はとっくに気がついていた。
「あの二人はあそこで死ぬことになっていたの。誰も助けられなかったわ。私は知っているの」
「どうして私を助けたの?」
「あなたの命数がまだ尽きていなかったからよ。あなたはまだ生きるの。私があなたを助けたのは、あなたが水の中で苦しむ時間が少しでも少ない方がいいと思ったからよ」
 人間は不便よね。水の中では生きていけないのだもの。人魚は約束どおり私にペンギンのぬいぐるみを持たせた。大きなぬいぐるみだった。皇帝ペンギンのぬいぐるみで、黄色のとさかが水中になびいてきれいだった。人魚は今度は私の目を塞がなかった。
「私の話がわかるように、少しだけあなたに力をあげるわ。私の言葉を理解できる力を」
人魚は私の口と耳に口づけをして、頭を二度撫でた。やっていることは幼子のおまじないのようだったが、途端に私は人魚の言うことが理解できるようになった。