陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第6話

 私はずぶ濡れでペンギンの檻の前に立っていた。雨に濡れたのではないとしたら、考えられることは二つ。あの水族館の近くの池か噴水に落ちて濡れてしまったということだ。そしてそのままペンギンの檻の前にやってきた。もうひとつはどこかの水場に落ちて濡れて、それから移動して水族館のペンギンの檻の前にやってきたということだ。
 どちらにしても当時三歳の遼子の覚束ない足で相当の距離を移動できることは考えにくい。私はずぶ濡れになる直前、あの水族館のすぐそばにいたはずなのだ。
「また溜息ついてる」
 向かいの席の宮崎が話しかけてきた。静かなオフィスに彼の低い声はよく通る。遼子は慌ててしっと指を口に当てて目配せした。
「分析データの傾向でも狂ってたのか?そんなに一喜一憂しなくてもやり直せばいいだろう」
「もう、人が静かにしてって言ってるのに」
私は宮崎の腕をつかんで外に出た。今日は雨は降っていない。
「いいだろう。今日はあんたの嫌いなあのおばさんがいないんだから」
「耳があるのはあのおばさんだけじゃないのよ。まったく口さがないんだから」
「そう言うあんただって充分おばさんだぜ」
「何よ、自分だっておじさんのくせに」
他愛もない言い合い。悪意のない諍い。二人は少し笑った。
「仕事辞めようかな」
「転職するの?」
ううん、と遼子は首を振った。
「この仕事を辞めるんじゃないの。もう仕事しないの。それでどこか遠い、何も持たずに暮らしていける国に行くの」
「一人で?」
うん、と遼子は頷いた。
 遼子を育てた両親はもうこの世にいない。五年前に養父が、二年半前に養母が他界した。二人に係累はなかったので遼子にわずかな遺産が入った。遼子はそれを普通預金口座に入れてそのままにしてある。その気になれば青い海の真ん中の小さな島で一人で死ぬまで暮らすことだってできるのだ。
 何だって捨てられる。何だって忘れられる。私は今と違う言葉を話し、肌の色の違う男と結婚して、丈夫な子供をどんどん作るんだ。
「子供を産んでね、家族で暮らすの」
遼子の育った家庭は貧しかったが、ひもじい思いをしたことは一度もなかった。老いた両親はいろいろと工夫をして食べ盛りの遼子の胃袋を満たし、充分な栄養をつけさせようとした。貧しいがあたたかい、誰もその日の暮らしに焦らない不思議な家庭だった。食卓に贅沢な菓子はなくても、食事の時間にあたたかい白いご飯を全員で食べられる。それはとても幸せなことだった。
 缶コーヒーを二つ買って、ひとつを宮崎に手渡した。
「いいのよ、前の借りだから」
小銭を取り出そうとする宮崎を押しとどめて、遼子は自分の缶コーヒーの蓋を開ける。
「私ね、一人っきりなの」
「恋人がいないってこと?」
「違うの、家族がいないのよ」
缶コーヒーを一口飲んで、宮崎を振り返る。宮崎は手の缶コーヒーを両手で包んで押し黙っていた。
「親戚は元々なかったのよ。父親も母親も一人っ子で、二人とも亡くなってしまって、ね。私、兄弟もいないのよ」
「天涯孤独ってこと?」
「そういうことよね」
もし、私に何かあっても頼れる人間はいない。そういう人間のコミュニティがあることは知っているが、入る気にはならなかった。失った人間ばかりで、失ったもののを新しく生み出せるとは思えない。でも、私は女だ。
「子供を産んで、家族を作るの」
そうすれば、私は新しい家族が自分の手で作り出せる。
「一人っきりだから家族がほしいのか?」
「そうね、もし父親も母親も生きていて私に兄弟がいれば、こう考えなかったかもしれない」
「恋人は入らないんだな」
「私、恋人は友人より信用ならないって、いい加減わかっているつもりよ」
ははは、確かに。宮崎も缶コーヒーの蓋を開けて半分ほど一気に飲んだ。
 宮崎は恋愛で痛い目に遭ったことがある。付き合っていた女に結婚を迫られて、「まだその時期だと考えていない」と正直に自分の気持ちを打ち明けたところ、別に女がいると疑われて興信所を使って身辺を探られた。痛いところも痒いところもは自分にはどこにもなかったので、自分を付け回す人間の存在に気づいてからも泰然としていたが、正直気持ちのいいものではなかった。自分の行動を逐一観察されて彼女に報告されている。彼女はそれに対価を支払う。自分の行動と時間が自分から切り離されて売買されている様子は滑稽でもあり気味悪くもあった。その彼女とは程なくして別れてしまった。宮崎に本当に自分と結婚する意志がないことを見極めた彼女が別に男を作ったのだ。
「それなら友人はどうなんだ?俺は数に入らないのか」
「宮崎、あんたはただの同僚よ」
友人ですらないわ、遼子はまた缶コーヒーを一口飲んで溜息をついた。
「一人っきりか。想像したこともないな」
「案外きついもんよ。家に一人でいることは大して苦痛ではないの……、一人暮らしの人間は家に帰れば大抵一人だしね。ただ、友達が弟や妹の話をするとき、本当に堪える。どうしてだかわからないのだけど、自分を無条件に慕ってくれる人間が私には一人もいないことが、そうね、つらいのかもしれない」
「友人も恋人も、間には何かあるしな。何もなかったとしても、始まりに何かある」
「そうなの。血の繋がりなら、もう何もないでしょう。だって血は生きていくために体に必要なものだもの」
 遼子は育ての両親の元で暮らすうちに、自分の産みの親の記憶がどんどん薄くなっていっていることに気づいていた。幸せは不幸を変質させる。けして不幸が消えることはないが、不幸そのものは変化して、人を害する毒から人の心に沈む古い澱となる。澱は沈殿するうちに何者かの力で二度と浮かび上がらぬほど重く地底に縛り付けられあることもある。それを、人間は「忘れる」というのだ。
 人魚の言葉が蘇る。
「人間は忘れられるのね。羨ましいわ」
忘れてもこの体の血は親から受け継いだものだ。この体に血が流れる限り、私は誰かの子供なのだ。
 そうだ。あの人魚は私に会ったことがあると言った。いつだろう。ただ、思い当たることがひとつだけある。私が人魚と出会っていたことをすっかり忘れていたのは、その人魚の記憶が私の忘れたいという力が一番強く発揮される記憶にごく近い位置にあったからではないか。そして、私はその記憶と一緒に、偶然にも人魚の記憶も沈めてしまっていた。
 人魚の記憶を掘り出すことは、きっといけないことだ。遼子は自分の手にある缶コーヒーの缶をぎゅっと握りしめる。目の前の景色に涙の紗がかかる。ほかの誰でもない。私がそうしているのだ。私が人魚の記憶、そして自分の最も忘れてしまいたいことを沈めているのだもの。
「何もかも忘れられる。嫌なことも全部」
何もかも沈められる。海の底に。そして誰も見つけ出さなければ、それは静かに錆びついていつか消えてしまう。
「嫌なことだけ忘れられたらいいのに」
「そう都合よくできた人間はいないさ」
そうだ、だが人間でなければ!

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