陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第4話

 遼子は傘を差して港に来た。食堂から五分と歩いていないのに、もう手先がかじかんできた。冬が近いのだ……。人気のない港をヒールの音を響かせて歩く。海はいくつもの波紋を落として静かだった。遼子は船と船との切れ間に眼を凝らしながら進んだ。イルカの影は見えない。遼子はなおも歩いた。
 遼子の耳が連続する水音を捉えた。水音がする。船から海面に注ぐ水音とは違う。何だろう。遼子は歩を進めた。
「あなた、あのときの捨てられた子よね」
不意に呼び止められて、遼子は驚いて傘を取り落とした。ばうん、とアルミの骨が撓んで大きな音を立てる。
「驚いたの。ごめんなさい。濡れると風邪を引くわ。傘を拾って」
人間は雨に濡れると風邪を引くでしょう。遼子は傘を拾わなかった。声の聞こえてくる方に遼子は転ぶように駆け寄った。誰、私が捨てられた子供なんてこと、私を捨てた両親と私を育てた両親、それと施設の人間しか知らないことだ。どこ、遼子はコンクリートの岸壁ぎりぎりまで寄って声の主を探した。
「ここよ。もう少し首を右に向けて。ここよ」
遼子はゆっくりと首を回した。いた。人……、いいや。
 声の主はゆっくりと波間に浮かんでいた。美しい女性だった。栗色の髪が波打ちながら長く海面に垂れ、それがわずかな波紋に揺られてきらきら光っている。顔は闇夜にもはっきりとわかるほどに白く、青い双眸は額の下で星のように燦然と輝いていた。臍はなく、鳩尾から下はびっしりと淡い水色の鱗で覆われている。人魚だ。イルカなんかじゃない。おかみさんが伝え聞いたのはこの人魚のことに違いない。
「やっぱり、私のことを覚えていないのね。人間は存外簡単に忘れられるのね。羨ましいぐらい」
遼子は両手を握り締めて拳を額に当てる。それが彼女が何かを思い出そうとするときの癖なのだ。しかし、何も思い浮かばない。
「わからない。何も思い出せない。あなたは知っているのね。でも覚えてない……、私は何も覚えていないのよ」
「忘れているのね」
そう、そうだ。私は忘れている。私はこの人魚に会ったことがあるはずだ。そうでなければここにいる人魚が私に会ったなどと言うはずがない。でも、でも。この世に存在するなど今の今まで一度も考えたことがなかった人魚に、私は今まで本当に会ったことがあるのだろうか。
「嘘をついてどうするの。疑り深い人は嫌いよ」
人魚はそれだけ言うと、ぽちゃんと水に沈んでしまった。
 遼子は呆気にとられてしばらくその場に佇んでいた。人魚は私に会ったことがあると言う。でも、私はそれを覚えていない。
 どうしてだろう。なぜ私は忘れてしまったのだろう。小雨が降りしきる。遼子はふと気づいて落ちたままの傘を拾った。