陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第3話

 遼子は一人暮らしなので、夕飯は外で食べるか簡単なものを家で作るかのどちらかだ。最近は仕事が立て込んで帰りが遅くなることが多いので、家の近くの食堂で夕食を取ることが続いていた。海の近いこの食堂は毎日新しい魚を出してくれるので、遼子の気に入っていた。一人暮らしだとこうはいかない。おかみさんに今日も同じことを繰り返しながら、遼子は空いているテーブルに着いた。
「さんまちょうだい」
秋も終わりの秋刀魚は血合いが少し苦い。遼子はかまわず大根おろしを大目にもらって食べ続ける。麦を合わせて炊いたどんぶり飯を最後の一粒まで平らげて箸を置いた。
 日はとっくに落ちて外は真の闇。煤けた時計は十時を指している。テレビでニュースが始まった。夏の赤潮からずっと海で異変が続いている。ブラウン管の中でキャスターが大きく手を振って、画面がビデオの映像に切り替わった。アサリやカキの貝類が大量死したり、見たこともない数のボラが汽水域に集まってきたり、クジラやイルカが港に迷い込んできたり、今年の海ではニュースのネタには事欠かないらしい。楽しそうだ、遼子はビデオの中で晴天のもと走り回るレポーターを見ながら不謹慎にもそう感じていた。
「遼子ちゃん知ってる?今日はすぐそこの船着場にもイルカがいたのよ」
「おかみさん、本当?」
注いだばかりの番茶を手に食堂のおかみさんが遼子の傍に寄ってきた。布巾で空いたテーブルを拭きながらおかみさんは話し続ける。
「本当よ。私が見たのではないけどね、うちによく寄ってくれる組合の人から聞いたの。事故の関係で漁師さんと一緒に船を見に行ったら、水色の丸太ぐらいのものがぷかぷか浮いてて、何だろうって話しているうちにどぶんと沈んで見えなくなったんだって」
「それゴミ袋じゃないの」
「それが違うらしいんだよ。ゴミ袋だったら船のスクリューにとっくに引っかかってるはずさね。それにゴミ袋にしてはぷっくり膨らんでて、中身がしっかり入っている感じだったんだって」
ま、私は見ていないんだけど。おかみさんはそう付け足して布巾でを畳むと奥に入ってしまった。
「イルカじゃなくて、中に死体が入ってるゴミ袋だったりして」
 目の前の秋刀魚は遼子が身はもう大体食べてしまって、残る身のは頭の目の周りぐらいだ。遼子は箸の先で執拗に身をほじくり続ける。
 この港には八年ほど前に土左衛門が上がったことがある。酔っ払って船から落ちた爺さんだった。ちょうど探していたところだと親戚が大喜びで引き取りに来たらしい。なぜ、喜んでいたかって? 簡単な話だ。その爺さんは酔ったときにしか船を出さなかったからだ。もとは真面目な漁師だったらしいが、ある日を境に毎日酒びたりになって(原因は誰も知らない)魚を獲らなくなった。いいや、獲ろうとしても獲れなくなったのかもしれない。酔って覚束ない手元では網を引くことすらままならない。金にならない漁に船を出し続ける爺さんに、親戚一同は渋い顔をしていた。そして、魚を獲らない漁師は魚の餌になる。因果な話だ。遼子はその話を思い出して「死体」と言ったのだった。
 しかし、死体でないなら何だろう。見た目はゴミ袋に似ている、膨らんでいる、中身が入っているらしい。ちょっと面白くなってきた。元来、こういう噂話は大好きなのだ。もし、おかみさんの言うとおりにイルカだったら楽しい。もし、もう一度この目で私が確かめられれば、私が最初に見つけたことになる。遼子は急いでお勘定をして外に出た。冷たい雨が降っている。おかみさんが傘を貸してくれた。遼子は海に急ぐ。