陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第2話

 遼子は捨てられた子供だった。水族館のペンギンの檻の前に捨てられていた。自分を捨てた親の顔は覚えていない。だが、その日の天気ははっきり覚えている。冬の始まりの暗い午後だった。雪混じりの冷たい雨がべしゃべしゃと水溜りに落ちて、ペンギンがプールに飛び込むどぼんどぼんという音が規則正しく耳を打った。遼子はペンギンのぬいぐるみを抱きしめて、鉄柵の隙間からペンギンの姿をじっと見つめていた。ペンギンは皇帝ペンギンフンボルトペンギン。人工の氷が白茶けて凍らない水の上に静かに身を横たえていた。

「疲れているんじゃないのか」
宮崎の声でふと我に返る。疲れているのかもしれない。自分の指先で肌に触れる。冷たく湿った指先の感触はあれど、自分の肌の感触は乏しい。
「大丈夫よ。土日は休んでるし……」
そう、大丈夫。
 二人は席に戻った。宮崎は机の上の電話メモを確認して、誰かに電話をかけ始めた。
 自分が不幸な子供だと遼子は一度も考えたことはない。水族館で保護されてからすぐ施設に送られた。施設での暮らしは不自由なかった。食事も衣服も限られたものしかなかったが、遼子のいた地ではどの家庭も似たような暮らしだったので大して気にならなかった。小学校に上がる前に子供のない年老いた夫婦に引き取られ高校まで出してもらった。その後、奨学金を受け大学を出た。社会人になってもう十年以上が経つ。自分の人生が恵まれていないなど一度も考えたことはない。出だしでちょっとケチがついただけだ。
 結局買ったコーラで眠気を覚ますと、遼子は目の前の仕事に取り掛かった。今日中にこのデータをまとめてレポートを上げないと明日の会議に障る。かたかた響くキーボードの音と、時折電源の入るエアコンのエンジン音、夕闇に飛ぶカラスの声、様々な音が遼子の耳に入る。
「今日中にこのレポートを上げて確認に出して」
今の仕事は安定していて、日常の些事を別にすれば働きやすい環境だと思う。プライベートに干渉しあわないことが暗黙の了解となっているので、遼子の生い立ちを知る人間もいない。個人情報の過保護の風潮で最近は本籍も会社に知らせる必要はない。苗字が変わっていることも、実父と実母が養父母とは別にいることも、戸籍謄本の上だけのことだ。私の日常ではない。
 机の上のタスクリストを指でなぞりながら、もう一口だけコーラを飲む。遼子の実父は弟が生まれてすぐに事故で死んだらしい。その後、実母は遼子と弟を女で一つで育てようとしたらしいが行き詰って弟と一緒に死んだ。遼子は一人、水族館のペンギンの檻の前に置いていかれた。捨てられたのか、生き延びろと言われたのか、遼子自身もいまだに知らない。