陽だまりの子

Child In The Sun

人魚 第1話

 秋雨の冷たい午後にマスクをはずして外に出る。今日で三日も太陽を見ない。遼子は雨に濡れた鉄柵に両手をかけて、ぐっと伸びをした。憂鬱、オフィスに戻りたくない。コーヒーを飲んでもコーラを飲んでも、この喉に詰まった重い塊はどうしても取れない。
 憂鬱だ。溜息ばかり出る。デスクに戻れば、あの女が寄ってくる。遼子は自分の上司が嫌いだった。仕事の指示の出し方ひとつでも気に入らない。それにあの上司は臭い。口から体から言い様のない臭気が漂う。腐り水の臭いだ。生きている人間からあのような臭いがするなんて、脳かはらわたのどちらかが腐っているに違いない。
「どうした」
軽い声がして振り返った。同僚の宮崎。
「今日は一日溜息ばかりだな。どうした。コーヒー飲むか」
宮崎は遼子のすぐ向かいの席に座っている。そんなに溜息ついてたっけ、と遼子は笑った。
「朝来て席について一回、PC起動して一回、電話取って置いて一回、メモ取って一回、それからはもう数えられなかった。いつもあんたは溜息ばっかりついているけど今日はとりわけ多いぜ。どうした」
「質問しないでよ。私、質問されるの嫌い」
そう言いながら、遼子は宮崎の差し出す缶コーヒーを受け取る。
「まあ、うちの会社は愉快なところじゃないわな。社長は時間の感覚がまったく欠如してるし、部長は利益と数字とがみがみうるさいし、あんたの上司のおばさんは人間の言葉では話が通じないときてる」
二人はあわせて溜息をついて、堰を切ったように一緒に笑い出した。遼子は缶コーヒーを一気に飲んでしまうと、もう一度大きく伸びをする。
「人生が二度あればいいのに」
「二度?またどうして二度なんだ」
「はじめの人生で人生の嫌なこと全部を経験するの。それで次の人生ではいいことしかない。どうよ、この考え。かなりいいでしょう」
だから二度。あの女の嫌味も体臭も今回限り。二倍になるのではなく二度になれば、一度一度の人生は間延びせずに済む。
「二度で足りればいいんだけど」