陽だまりの子

Child In The Sun

無何有郷

 メタンガスの臭気の中、黄色く曇った空。一面、海よりの光で妙に明るい。ぽつぽつと降り出した雨に、女はバーゲンディの傘を差す。雨は次第に激しくなり、募る風に傘の骨は軋み、折れ、女は諦めて傘を閉じる。忽ち染み透る雫に、黒いコートは鉛となって女の両肩に重く圧し掛かる。青いマフラーを首に巻きつけたまま絞り、女は手を伝い滴る水をじっと見つめる。坂は滝のように水を流し、女の足元のブーツはぶかぶかと歩くたびに音を立てる。空はまだ明るく、立ち上る水蒸気と相俟って、海面は空中の雨粒をきらきらと照らし出す。
 傘を捨て、焦燥感だけを手に、女は歩く。遠くには海、近くには幾重にも重なって建つ、倉庫とアパートメント。規則正しく並んだ窓は全て破れている。上り坂はどこまでも続き、女の視界の石垣は排ガスに黒くくすんでいる。人の気配はない。今日、三度目の地震。女は咄嗟に石垣から離れると道の中央に頭を抱えて、伏せる。吹く風は温かくも冷たくもない。ただ、水の温度。矛を収めた大地の上、雲は光速で流れ去り、次から次に続くその波はけして太陽を映さない。
 女は立ち上がるとポケットからメモを取り出し、傾いた電信柱の住所と照らし合わせる。標識はなべて色褪せ用を為さない。垂れ下がる電線からころころと雫が落ちる。女は顔を伝う雨粒を拭い、長い前髪が頬に貼りつくのに眉をひそめた。アスファルトの間から顔を出した枯れ草が層を成して積もり、それに遠雷の閃光がちらちらと映る。

 朽ちかけたベランダから、男が顔を出して女を呼ぶ。
「何をしている」
「人を探している」
「誰もいないぞ」
「いるはずだ」
「ここには何もない。何にもなくなった。住所もない。地図にもない。ここが無何有郷だ」
 雨ざらしになったピアノを前に、女はぼんやりと頷く。奥にはギター、ベース。どれもネックが曲がっている。男の黄色く乾いた唇に、言葉が上る。
「弾けんだろ」
 女は再び頷くと、黙って雨に打たれたピアノの前に座る。ベランダから降りてきた男が、その隣に立つ。男の手が女の腰に触れる。女は構わず弾き始める。バラッド。音の出ない鍵盤を、口で辿りながら、女は弾き続ける。がたんがたん、とペダルを踏み、女は叫ぶように歌い始めた。後ろに立つ男がそれにあわせて小さく足を踏む。滝のような雨。湿った鍵盤は軋みあい、悲鳴にも似た音を立て、女の指に抗う。女はねじ伏せるように鍵盤の上に指を走らせる。男は女の後ろに立ち、ずぶ濡れになった女のマフラーを抑えた。男の唇が女の首からマフラーを奪い、荒々しく痕を残す。首を振った拍子に女はピアノの角に頭をぶつけ、彼女の鼻からは鮮血が滴り落ちる。鼻血、ピアノが汚れる。降りしきる雨。冷たくはない。手も凍えない。無何有郷。女と男の影がピアノの鏡面に映り込む。遠くで船の汽笛。耳の中で反響し、ピアノの音が聞こえない。砲塁から吹く風の音、壁を揺らし、黒く油のこびりついた換気扇が、ガラガラ回る。空を満たす閃光、突如鳴り響く轟音。隆起する地盤。女、女は弾く。ピアノを弾き、叫ぶ。女は椅子を蹴り立ち上がる。腕を鍵盤に打ちつけ、またピアノの鏡面に頭を打ち付ける。二度、三度と繰り返し、女の額は割れる。倒れ伏す女。後ろの男も一緒に倒れる。男は女の上に馬乗りになると、女の服を荒々しく剥ぎ取る。
 何も持っていないのか。何も持たずにここに来たのか。
「そうだ」
男は黙って女を犯す。雨の中、泥と水に溺れるように、二人の死体は絡み合う。口付けなどなく、腐り落ちるまま男は男として女は女としてその役割を果たす。男の全身に隙間なく施された刺青、死者の烙印が雨の内に燃え上がる。雨、汽笛、ここが人の求めるユートピアだとすれば、生まれる子供は全て胎児のままだ。
 ああ、あ。切れ切れに聴こえる女のそのか細い声が、だんだん遠くなり最後、男の手には青いマフラー。下には舌を噛んで死んだ女の死体。

 一転、雨は止む。
 男は女の服を剥ぐ。白いブラウス、灰色のセーター。裸の女の腹に、男は時限爆弾を認める。その数字は次から次へと時を刻み、その最期が近いことを教える。地面が揺れ、煉瓦が落ちる。雨に黒く光るコンクリートの壁に、男は取りすがり、その一片を持って、女の腹に叩きつける。鈍い音。かすかな金属音。しかし数字は停まらない。一から二、二から三、アラビア数字の群れが男の周りを駆け巡る。女は動かない。死んだのだ。この女は死んだのだ。
「何も持っていないのか。何も持たずにここに来たのか」
女の鶏頭の花のようなその血のにこごりが、黄金の空の下でゆっくりと冷えてゆく。また地震が起こる。泥濘の青いマフラー。ピアノは転び、ギターの弦が弾け、一瞬のシンフォニーが聞こえる。
 数字が止まる。
 地盤の隆起が止まり、巨大な水柱が黄色の雲を貫いて真っ赤に天を焼いた。五箇所から同時に起こる竜巻に大地は砕け、群青の海と溶け合い、全ての物の上に流星の飛沫が落ちる。虹だ。虹だ……。誰の声だろう、私は振り返る。誰の声だろう。雨は止んだ。真紅の太陽、生まれたばかりの真円の光。虹が落ちて、新しい世界が始まった。

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