陽だまりの子

Child In The Sun

湖水

 秋色の深い空気の向こうに湖が見える。まるで絵葉書の一片のような景色。淡い茶色の草葉が君の膝下で揺れる。四方の山から吹き下りてくる風が辺りの風景を絶えずさざめかせている。
 この湖の水はひどく透明だ。数十メートル下、数百メートルしたまではっきりと目にすることが出来る。湖水に不純物が全く含まれていないためだ。水中に微生物は全く存在せず、それを喰らう魚もいない。水は素晴らしく透明だ。沈殿している小石、樹木、動物の骨、果てはそれに絡みつく白茶けた雑草までが見える。微生物に分解さない物質が、全てそのまま原形を保っている。ああ、静かだ。音はするが聞こえない。冷たく柔らかい水の中へ君の意識は沈んでいく。
 乱反射する湖面が突然、君を照らし出した。沈んでいく水の分子も君を構成している一つ一つの粒子も凍った木々の樹液の結晶も小島に当たって薄く砕ける飛沫も湖底の凍れる砂も風が押す空気の玉も痙攣する波間に浮かぶ景色も湖畔の小さな砂丘の斜面もそれに渦巻く砂塵も空を書ける大気の流れも木の葉の葉脈の微かな鼓動もそうして零れる一滴の朝露も雑草が脈打ち大気を押し上げるさまも割れた鏡のように食い違って雲の粉を映す波も山の吐く太古の吐息も君の爪先を洗う小さな泡も山肌に現れた岩石の表情も立ち込める光が全てを反射する。
 岸壁が侵食され崩れていく。その岸壁の一塊が湖面を揺らし葉も波紋も円を幾つも重ねて広がり岸辺に跳ね返った波紋が砂粒を濡らしその砂は湿り気を風に預け風は嘆く木々の間を抜けて湖面を走り対岸の山脈にぶつかって上昇し雲を形成する。雲が緩やかな雨を降らせ雨粒が湖面を割り無数の円とともに湖水を循環させる。砂が巻き上がり、もう一つの砂粒を撥ね、その砂粒がまた他の砂粒を弾き、空中で二つの砂粒が衝突し、地面に触れた砂粒がまた空中へ同胞を突き飛ばし、同胞の中に埋もれ、一定のリズムを刻んでいく。君は砂塵に身を委ねる。君の吐く息が砂粒を押し戻し、吸う息が砂粒を引き寄せる。リズムを乱された砂塵は地面に叩きつけられ、また多量の砂粒が皮がめくれるように地中から現れる。君の呼吸が空気を動かし、空気の玉が湖面に弾け水飛沫が波紋を作りその波紋を風が攫い風は木の葉を毟って落ちた露が草を伝い揺れる草が地中へ振動を伝えその振動が君をよろめかせよろめいた君は水中に手をつき掌に握られた砂が水を潰し破れた水が湖底の動物の骨を押し倒れた骨が湖底に砂を舞い上げ、砂は湖水を撫で水がうねりその波動が湖面で波紋を作り小さな波の山は大気の流れを曲げ大気は霧になり広がった霧を君が吸い肺で霧は変化し体熱とともに放たれる。君の体熱は霧を破壊し壊れた霧は空へ飛び上がり大気の壁が風となってそれを押し返す。風が無数の粒子になり湖面が揺らめく。揺らめく波間が君を映す。君は共鳴する。立ち込める音波が全てと反響する。
 滔々と流れる大気がその光線を音波を均質化しプリズムを作った。その間に映し出された君が見える。君は破片だ。視界の中でただ一つの見えない破片だ。実体のある破片だ。君は虚像でも幻聴でもない。君は光の閃きだ。目映い光の一線だ。大気を揺るがし空間をさざめかす、君は音の一端だ。君は景色だ。君はこの空間の支配者だ。下僕だ。君は心だ。君は脳だ。君は肺だ。君は心臓だ。君は眼球だ。君は耳だ。君は鼻だ。君は口だ。君は皮膚だ。君は神経だ。
 反射と共鳴する死の湖。この景色に揺れるすべての物質とその集合が君を一部として存在している。君が揺らめく。また君が揺らめく。空間は果てしなくうねる。