陽だまりの子

Child In The Sun

094. 限りある

一人の部屋で、コロナを空ける。誕生日に買って残っていたコロナだ。あの日は、ケーキを食べてワインを飲んで、中途半端なセックスをして寝てしまった。彼が一緒だった。 でも、他にもあの日したかったことがたくさんある。ケーキだけではなく、私も彼も大好…

093. 遥か彼方

「何であの仕事辞めたの?」 理由は特にないんだけど……、と久しぶりに会った女友達は言いよどむ。彼女が時間ができたので会おうと電話してきたのが昨日。長く会っていなかったので飛んできてみればこれだ。仕事を辞めたと切り出されても私にはどう応えていい…

092. いつかどこかで

林檎と水だけの夕飯を済ませてしまうと、私はベッドに飛び込んだ。ぎしぎしいうスプリングと鉄のフレーム。部屋は冷え切っている。「週に5ドルなら上等だわ」と言って借りたこの部屋が寒々しく感じられるのは、嵐の夜でもなく、霜の降りた朝でもなく、今日の…

091. デイ

靴下をぽとんと洗面器に落とすと、ぬるま湯のうちにさっと赤い斑紋が広がった。血だ。 階段で派手に転んで救急車で病院に運ばれた。爪がはがれていただけで傷は大したことはなかったが、それでも目が覚めるほどに痛い消毒液で下半身が痺れるまで消毒され、ガ…

090. スロウモード

履歴書を書いていて職歴に差し掛かると、誰かに心臓をぎゅっと掴まれるような陰惨な痛みを胸に覚える。自分が如何に無能な人間か。5年も仕事をして口に糊して世を渡ってきたのに、自分の時間はわずか数百字程度の文字にしかならない。仕事のその場では自分の…

089. 泡(2)

マグ、聞いてほしいことがある。聞きたくないならいいんだ。黙って頷いていてくれるだけでいい。俺の話が終わるまでそこにいてほしいんだ。俺が悪い夢ばかりを見る病気なのは知ってるだろう。今日は、最近見るようになった悪い夢の話をひとつさせてくれ。こ…

089. 泡(1)

私は不安のさざめきの中に自分を見出す。不安は海のように私の体の上を覆ってしまっていて、私の体は波間の底にわずかに見えるだけだ。私の体の形も、波の打ち寄せる影に頼って幾許かその様子を推し測ることができるのみ。不安は私の体を彫刻する。不安の波…

088. 手さぐり

冬の雨に濡れて帰ってきた私は、ハイヒールを脱ぐとそのまま廊下を歩いて、ベッドに倒れこんだ。自分の香水の匂いが、雨のせいで髪と一緒に顔にまとわりつく。私はもう、それを払いのける力もない。指先から雨粒と一緒に、力という力が滴り落ちていく。スト…

087. 今必要としている物(2)

ボックスのティッシュが切れていたことを思い出して、来た道をゆっくり引き返した。私は家の近くでものを買うことに決めている。家の近くには肉屋と豆腐屋と薬局と古い洋品店があり、少し離れたところに町の小さな本屋とコンビニがある。今言った中で、コン…

087. 今必要としている物(1)

私にはほしいものがたくさんある。最近は一眼レフのカメラがほしくてたまらない。どうしてもほしい。カメラでたくさん写真を撮りたいのだ。私は絵を書くより文章を書く方が得意だ。だが文章はいくら頭に思い浮かんでも、こうして手先からアウトプットしなけ…

086. 距離感

電車の窓に映る自分の影が二重になっていた。それまで自分の影をじっと見ていたのに、二重になったことに気づかなかった。コンタクトがずれているのかと思った。違った。電車の扉が開いて、扉の近くのガラスに扉のガラスが重なって二重になったのだ。それに…

085. 天井

誰もいない天井には、私の寝息だけが漂っている。私は夢と現実の混濁した意識のうちで、もうひとつの現実を見ていた。 金属の固いベッドの上で、私は目を閉じて寝息を吐いている。春暁の部屋には、カーテンを通して緑色の光が射しこみ、少しずつ温度が上がっ…

084. 言いかけた言葉

結構な大怪我をした。医者に行って手当てをしてもらったので、もう痛くない。包帯が目立つが、二三日経てばガーゼだけになると医者は言っていた。医者の言うことを私は概ね信じている。彼らは私と同じ元素と細胞でできた人間を私よりずっと真摯に見てきたの…

083. 仲直り

私は人の憎悪を見るのが嫌いだ。人や何物かを憎んで歪んでいる人の顔や、吐き出される罵詈雑言に耐えられない。ただ、悲しそうにしている人の顔は嫌いではない。何かを悲しんでいる人は優しい人だということを本能的に知っているからだ。今、私の目の前にい…

082. 暗闇

「私、おまじないができるの」 と、切り出した友人を私は何を言っているのかと問い質した。 「本当よ、おまじないができるの。このおまじないをすれば、嫌なことを消せるの。二度と思い出さなくなるのよ」 「どうやるの」 私も身を乗り出した。 「不意に、昔…

081. 足下

私はもう30分以上、ここでじっと彼を待っている。せっかちな私は人を10分以上待ったことがない。10分までは何とか待てるが、10分を過ぎると忽ち我慢の限界が来て、お茶を飲みに行ってしまったり、腹を立てて家に戻ったりする。でも、今日ばかりは10分を過ぎ…

080. 雑草

友達はいても仲間はいない。そういう環境が随分続いている。しかし仲間意識というものは忘れていない。仲間意識の強い人間から敵視され攻撃されることが多かったからだ。ふらふら一人でいることが多かった私は、常時多人数でいることを好む仲間意識の強い人…

079. 反旗を翻す

誰から見ても悪い行い、かっぱらいや火付けを行っているときも、誰から見ても善い行い、施しやお祈りをしているときでも、人間の本来的な善悪を決めるのは、その人間が本当にただ一人であるかということだ。施しやお祈りを他人への侮蔑から行っている人間が…

078. イメージダウン

鉢の幸福の木が2株腐っていた。どんなに肥料をやってもこの株だけ芽が出ないのでおかしいと思っていたが、今日株の上をつかんで、ぐっと引っ張ってみると根もなくするりと抜けた。土に埋まっていた部分だけ樹皮が腐って、細い幹は炭のように黒く変色している…

077. ストレス

弁当屋で買ってきたおにぎりを食べてしまうとビールを飲んで、そのままずっと本を読んでいた。今日は水曜日の夜だ。仕事が立て込んでいて残業しなければならず、六時半の医者の予約を断った。受付の人は慣れている。電話越しに僕を優しくたしなめた。 好きで…

076. 再生

ねえ、シャーリーン。聞いてほしいことがあるの。もう聞き飽きたなんて言わないで私の愚痴に付き合ってちょうだい。ね、シャーリーン。私、今日とてもつらいことがあったのよ。電車に乗っていたら突然気分が悪くなって吊革を持っている手が痙攣し始めたの。…

075. 迷い

私はつらいことをつらいと思わないようにしようと、じっと努力していた。でも、それはできなかった。挫折を認めることができず、自分のことをなりそこねの聖人のように扱い、徒労とわかっている苦労を自らに科した。馬鹿々々しい。神に誓ってここで述べるの…

074. 雨は降っているか?

多少の雨に僕は傘は差さない。傘を広げるのを面倒がるほど無精ではないけど、何だか癪じゃないか。雨ごときに怯えているようでさ。そりゃ、僕だって雨に濡れて風邪を引いたり肺炎になったりするのは嫌だよ。でも、これぐらいの雨なら風邪なんて引きっこない…

073. 最後

ひどい風邪を引いて医者に処方された滅法強い薬を飲んで私はベッドの上で呻吟している。夥しい汗が額に浮かび頬に流れていくが拭う気力もない。私は汗に混じって自分の涙が流れていくのを感じる。感じるだけで涙をとどめようとすることもない。だって、熱が…

072. 崩壊

眠る前に安定剤を飲む。安定剤を飲んでから5分も経たないうちに眠ってしまうので、安定剤としての意味はほとんどない。ただ、この薬を飲んで寝ると必ず夢を見るのだ。うっかり飲むのを忘れたり、飲み合わせで薬が飲めなかったりするときには夢を見ない。夢を…

071. 積み上げる

輪切りの犬を見た。その犬は輪切りだったが、そんなにグロテスクなものではない。ただ、足の付け根、腹、首から下、頭と四つに体を輪切りにされているだけだ。断面は薄いピンク色で、指の腹で押すとピーチパイのように柔らかである。その犬は転んだり、無理…

070. コーヒー

働く中でいつも忘れないようにしていることが、ひとつある。同僚のマグカップを洗うことだ。オフィスにはレンタルのコーヒーサーバーと薄いプラスチックの使い捨てのカップが置いてある。社員なら誰でも好きなだけ飲んでいい。だが、この薄いプラスチックの…

069. 幸せ(2)

恋人が「捨てていい」と投げたTシャツを私は拾い上げて大事に寝巻にしている。洗うときは裏返しにして洗濯ネットに入れて洗濯機に入れている。柔軟剤は入れるけど漂白剤は入れない。恋人は「貧乏っちい」と嫌がるけれど、私はこのTシャツが気に入っている。…

069. 幸せ(1)

夜半に目が覚めて、私は寝返りを打とうとして、自分の足に当たる彼の体に気づいた。彼はシングルベッドの壁側の半分の領域で、体をちぢこめて静かに寝入っている。顔を覗き込むと、その寝息が顔にかかった。狭いベッド。豆電球だけの電灯、燃え尽きたアロマ…

068. 天使と悪魔

ニームだ。俺の名前はニームだ。覚えたか?覚えたならそこに掛けなよ。あんたも俺の話が聞きたいんだろう。今まで何人も俺の話を聞きたいとこの独房にやってきた。だが、あんたは違うようだね。どうしたんだい?俺は二人の人間を殺した殺人者だ。一人しか殺…