陽だまりの子

Child In The Sun

字書きさんに100のお題

072. 崩壊

眠る前に安定剤を飲む。安定剤を飲んでから5分も経たないうちに眠ってしまうので、安定剤としての意味はほとんどない。ただ、この薬を飲んで寝ると必ず夢を見るのだ。うっかり飲むのを忘れたり、飲み合わせで薬が飲めなかったりするときには夢を見ない。夢を…

071. 積み上げる

輪切りの犬を見た。その犬は輪切りだったが、そんなにグロテスクなものではない。ただ、足の付け根、腹、首から下、頭と四つに体を輪切りにされているだけだ。断面は薄いピンク色で、指の腹で押すとピーチパイのように柔らかである。その犬は転んだり、無理…

070. コーヒー

働く中でいつも忘れないようにしていることが、ひとつある。同僚のマグカップを洗うことだ。オフィスにはレンタルのコーヒーサーバーと薄いプラスチックの使い捨てのカップが置いてある。社員なら誰でも好きなだけ飲んでいい。だが、この薄いプラスチックの…

069. 幸せ(2)

恋人が「捨てていい」と投げたTシャツを私は拾い上げて大事に寝巻にしている。洗うときは裏返しにして洗濯ネットに入れて洗濯機に入れている。柔軟剤は入れるけど漂白剤は入れない。恋人は「貧乏っちい」と嫌がるけれど、私はこのTシャツが気に入っている。…

069. 幸せ(1)

夜半に目が覚めて、私は寝返りを打とうとして、自分の足に当たる彼の体に気づいた。彼はシングルベッドの壁側の半分の領域で、体をちぢこめて静かに寝入っている。顔を覗き込むと、その寝息が顔にかかった。狭いベッド。豆電球だけの電灯、燃え尽きたアロマ…

068. 天使と悪魔

ニームだ。俺の名前はニームだ。覚えたか?覚えたならそこに掛けなよ。あんたも俺の話が聞きたいんだろう。今まで何人も俺の話を聞きたいとこの独房にやってきた。だが、あんたは違うようだね。どうしたんだい?俺は二人の人間を殺した殺人者だ。一人しか殺…

067. 扉

腫れ上がった目蓋を押し上げてトランクの中に荷物を詰め込む。この家で使っていた必要なものはすべて持っていかなくてはならない。私は今日、この家を出て行く。今トランクに詰めているのは今、自分が捨てられない荷物だ。明日の私に必要かどうか、混乱した…

066. グラス

電動扉が雨に塗れてその口を震わせている。もう20分以上の時間が過ぎた。雷がここからちょうど一つ先の信号に落ちたそうだ。車内のアナウンス。電車の中は静まり返り、電動扉の足元にホームの屋根の隙間から注ぎ込む雨で水溜りができている。文庫のヘミング…

065. ネオン

春の始めの雨上がりの宵闇を二人の子供が渡ってゆく。弾む足音、群雲の下、二人の子供が踵を鳴らして走りゆく。 「ねえ見た。今日の看板。すてきだったわねぇ」 「見た見た。緑と赤の電球がとってもすてき。電球は断然赤よね、黄色はどこにでもあるもの」 「…

064. 橋

毎日、私は橋を渡って通勤している。通勤に使っている列車が毎日鉄橋を渡るのだ。行きと帰りの都合二回、私は橋を渡っている。私はいつも、行きは東側寄りに帰りは西側寄りに乗るようにしている。川が西から東にまっすぐに流れ、その上を流れに直角に橋が渡…

063. No. 1

「どんな自分になりたいですか」「憧れていた人は誰ですか」「尊敬する人物はいますか」ここ数年でこういった問いを繰り返し受けてきた。私もいつも答えに窮す。血液型占いもある。几帳面なA型、マイペースなB型、二重人格のAB型。B型の人間とは不思議と馬が…

062. 嘘

監房のうちでは監房に入ったことのない一般の人間が信じられないほど人間的な会話が交わされる。囚人達は思い思いにあだ名を付け合い、それがどれほど自分にそぐわないあだ名でもそのあだ名の示す役割を演じようとする。それは一種のゴッコ遊びだからだ。数…

061. 逃げ回る

海底には人知らぬ三つの国があった。鉱物の資源に恵まれたエアノリクス、海中にありながら真水が湧き出で草木生い茂る農業の国テンビクノレア、一番海面に近いため明るい陽光のもと海中を走るヨットの帆が眩しいオランディア。三つの国は三つの大陸棚の中に…

060. アスファルト

パタパタという機械音が窓の向こうから響いてくる。ヘリコプターだろうか、明るく閃く天井。今日も眠れないまま、私は天井を見上げている。意志の力で眠るのにも、もう厭きた。眠れないのなら、そのまま起きていよう。暗い部屋、白い天井、傾いたポスターフ…

059. あの日

私には体が三つある。心の体と、頭の体と、体の体。心と頭と体がそれぞれの身体を持ち、協力しあったり、反目しあったりしながらもそれなりに折り合いをつけて共存しているのが私の心臓のあたりだろうか。心と体は古参だが、頭は新顔なのでどうしても心と体…

058. 散歩

シャーリーンという私の名前が何にちなんだものなのか、今となっては聞く相手もいないので知る由もないが、少なくとも私の両親は娘が不眠症になることを願ってこの名前をつけたのではないと信じたい。この界隈で「シャーリーン」と言えば「不眠症の女」を指…

057. 白と黒

コンロの前で鍋の中の煮物の煮える様子をじっと見詰めている。醤油と味醂の匂いと暖かな湯気で、自分の髪の先がじわじわ熱くなってくる。換気扇の音の向こうに外の木枯らしの音が聴こえてくる。明日は雪になるそうだ。雪が降れば暖かくなる。雪が降れば何か…

056. 待ち伏せ

窓の外の低く赤い月を見て、ふと朝から干したままの洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、街灯の下に一人の男が立っているのが目に入る。自動販売機の前を行ったり来たり、その中の缶コーヒーやジュースの品名はもう覚えてしまっているに違いない。目の前…

055. 自転車

幼い頃、私はイチジクの実を見つけるのがうまかった。互い互いに枝から生えたたくさんの葉のうちから私はいつも実の在り処を誰かに教えてきた。背丈があの頃の倍ほどにもなった今でも、私は自分の背丈の三倍以上もある巨木の根本から、樹上遥かな梢の実を指…

054. 堤防

ざんざん降る雨の音を聞いていると、去年の秋に時間が揺り戻ったように感じる。今日は2月11日。冬も終わり。雪が降らずに雨が降っている。雨の降る様子に心を動かされるのに、雪の降らないことに異を唱えるのに、私の心は自分の感情にまったく静かになってし…

053. ポケット

肩甲骨の間が痛い。風邪を引いて三日目。いい加減に休んだがいいと毎日自分に言い聞かせて布団に入るが、翌朝目覚めると存外に体調がいいのでツイ出勤してしまう。午後になって薬が切れてきて、ああ、自分の見込みが甘かったと気づく。だが、それも毎日のこ…

052. さざなみ

私は大事な人に物を買ってあげるのが好きだ。生来の口下手で、自分の言葉をうまく声にできないからだろう。愛情を物で示そうとする。人に話しかけることができないので、私はいつもその人のことをじっと見ている。観察している。だから、その人が何がほしい…

051. 路地

蝋梅の盛りを見逃してしまった。家から駅に向かう途中に、小さいながら枝振りのしっかりした蝋梅の木があった。家の主からその気が蝋梅であると聞いて花のときをここ半年ほど楽しみにしていたのだが、日々の雑事に忙殺されてついぞ見ずにしまった。この小さ…

050. 煙

椅子にかけた男の肩に腕を回して女は男の背中に額を預ける。男は自分の肩の上の腕を払うでもなく、自分の背中の女の額を退けることもなく、そのままにさせている。 「煙草、やめたらいいのに」 男の手には、細身のシガレットホルダーが握られている。これで…

049. 反射

マグは戸惑っていた。この町から自分ひとりが出て行くことにこんなにもたくさんの理由が必要だと思いもしなかったからだった。彼はまず水道局に言い訳をし、ガス屋と電気屋にガスと電気を止める日時を秒単位まで知らせ、引っ越し屋には本当にこれ以上は何も…

048. 放課後

「うちのお父さん煙草やめたんだ」 「そうなの。いいじゃん」 「よくないよー。だって病気してるんだよ。それで煙草やめたの。病気してなかったら今でも絶対吸ってた」 「お医者さんに言われたの?」 「そうだよ。あと、お母さんとおばあちゃんに言われてや…

047. 左利き(2)

私から何も取らないで。心も体も、何も取らないで。私を一人にしないで。私から仕事を取らないで、私から大事な人を取らないで。私には理性という右手があったけれど、この右手が最近うまく動いてくれないの。でも、左手でも最近はいろんなことができるよう…

047. 左利き(1)

夜道は怖いので、私は人通りの多いバス通りを通る。会社帰りはいつもこの道を歩いている。一日目、私は聞かない音を聞いた。規則正しいドン、という音と、ぽんぽぽんぽぽぽぽぽ、という柔らかい音。音は間延びしたり性急に次を急いだりしながらずっと続いて…

046. SOS

土砂降りの雨、聴こえるのは窓に吹きつける雨音だけ。私は一人で部屋の中にいる。服は全部脱いでしまって、身につけているものは何もない。灯を消してしまったから恥ずかしくはない。私のほかに誰もいない部屋で、恥ずかしいなど本当は感じないことなのだけ…

045. 人生ゲーム

ジョーカー、カードをやらないか。俺が変人だって、俺が狂っているって、周りは言うのさ。ジョーカー、お前は違うだろう。お前はそうは言うまい。だって、お前はジョーカーだからな。誰がつけたんだか、「ジョーカー」なんて悪趣味な呼び名。今ではお前自身…