陽だまりの子

Child In The Sun

字書きさんに100のお題

100. その形

私の書く文章は、標本のようなものだ。私の夢の拓本、押し花。私は夢の形をそのまま残そうと、その形を文字という手で紙に押し付ける。私は画家でも彫刻家でもないし、写真家でもない。自分の目に見えるものを他人に見せるには文字でそのイメージを縁取り、…

099. 1つと無い

シャーリーンは自分が死ぬことを信じなかった。死ぬことを信じなかったので、死と向き合う前に彼女はこの世を去った。彼女が死んだのは夏の終わりで、彼女の庭にはまだバラが咲き残っていた。シャーリーンは花を育てるのが上手だった。自分の身の回りのこと…

098. 無駄な夢

降り始めの細かい雨が、車のヘッドライトに浮かび上がり、アブラムシの群れのようだと僕は思う。自分の手には紺色の古ぼけた傘、行き違う様々な色の車。 ここ数日、腸の底まで腐ってしまいそうな雨が続いたが、今日の雨はさわやかだ。第一、雨粒が冷たい。そ…

097. 息を止めた

机の下から、昨日飲まなかった錠剤を見つけた。寒波で冷え切った部屋で湿気た様子もない。このまま埃を払って飲んでも平気だろう。ただ私は今、その錠剤を飲んだばかりなのだ。毎朝、私はこの錠剤を飲むことにしている。処方量は一日一錠。今日、これを飲ん…

096. クローバー

どうしてもやまない雨、だんだん沈んでいく気持ち、凍りついたように冷たく強張った私の両手。ああ、だめだ。このままじゃだめだ。傘を広げて家を出た。さっきまで窓を叩いていた雨は私の傘の上でころころ転んでいる。そうだ、L&Pを買ってこよう。デイリーま…

095. 苦笑

雨が桜の花も何もかも押し流してしまった。若葉にはまだ早い新芽が木の間に漂っている。 「今日も何も予定がないの。つまんない」 少年は自分の靴下の先を引っ張りながら口を尖らせた。さっき自分で焼いて食べたホットケーキのせいですっかり眠い。でもこの…

094. 限りある

一人の部屋で、コロナを空ける。誕生日に買って残っていたコロナだ。あの日は、ケーキを食べてワインを飲んで、中途半端なセックスをして寝てしまった。彼が一緒だった。 でも、他にもあの日したかったことがたくさんある。ケーキだけではなく、私も彼も大好…

093. 遥か彼方

「何であの仕事辞めたの?」 理由は特にないんだけど……、と久しぶりに会った女友達は言いよどむ。彼女が時間ができたので会おうと電話してきたのが昨日。長く会っていなかったので飛んできてみればこれだ。仕事を辞めたと切り出されても私にはどう応えていい…

092. いつかどこかで

林檎と水だけの夕飯を済ませてしまうと、私はベッドに飛び込んだ。ぎしぎしいうスプリングと鉄のフレーム。部屋は冷え切っている。「週に5ドルなら上等だわ」と言って借りたこの部屋が寒々しく感じられるのは、嵐の夜でもなく、霜の降りた朝でもなく、今日の…

091. デイ

靴下をぽとんと洗面器に落とすと、ぬるま湯のうちにさっと赤い斑紋が広がった。血だ。 階段で派手に転んで救急車で病院に運ばれた。爪がはがれていただけで傷は大したことはなかったが、それでも目が覚めるほどに痛い消毒液で下半身が痺れるまで消毒され、ガ…

090. スロウモード

履歴書を書いていて職歴に差し掛かると、誰かに心臓をぎゅっと掴まれるような陰惨な痛みを胸に覚える。自分が如何に無能な人間か。5年も仕事をして口に糊して世を渡ってきたのに、自分の時間はわずか数百字程度の文字にしかならない。仕事のその場では自分の…

089. 泡(2)

マグ、聞いてほしいことがある。聞きたくないならいいんだ。黙って頷いていてくれるだけでいい。俺の話が終わるまでそこにいてほしいんだ。俺が悪い夢ばかりを見る病気なのは知ってるだろう。今日は、最近見るようになった悪い夢の話をひとつさせてくれ。こ…

089. 泡(1)

私は不安のさざめきの中に自分を見出す。不安は海のように私の体の上を覆ってしまっていて、私の体は波間の底にわずかに見えるだけだ。私の体の形も、波の打ち寄せる影に頼って幾許かその様子を推し測ることができるのみ。不安は私の体を彫刻する。不安の波…

088. 手さぐり

冬の雨に濡れて帰ってきた私は、ハイヒールを脱ぐとそのまま廊下を歩いて、ベッドに倒れこんだ。自分の香水の匂いが、雨のせいで髪と一緒に顔にまとわりつく。私はもう、それを払いのける力もない。指先から雨粒と一緒に、力という力が滴り落ちていく。スト…

087. 今必要としている物(2)

ボックスのティッシュが切れていたことを思い出して、来た道をゆっくり引き返した。私は家の近くでものを買うことに決めている。家の近くには肉屋と豆腐屋と薬局と古い洋品店があり、少し離れたところに町の小さな本屋とコンビニがある。今言った中で、コン…

087. 今必要としている物(1)

私にはほしいものがたくさんある。最近は一眼レフのカメラがほしくてたまらない。どうしてもほしい。カメラでたくさん写真を撮りたいのだ。私は絵を書くより文章を書く方が得意だ。だが文章はいくら頭に思い浮かんでも、こうして手先からアウトプットしなけ…

086. 距離感

電車の窓に映る自分の影が二重になっていた。それまで自分の影をじっと見ていたのに、二重になったことに気づかなかった。コンタクトがずれているのかと思った。違った。電車の扉が開いて、扉の近くのガラスに扉のガラスが重なって二重になったのだ。それに…

085. 天井

誰もいない天井には、私の寝息だけが漂っている。私は夢と現実の混濁した意識のうちで、もうひとつの現実を見ていた。 金属の固いベッドの上で、私は目を閉じて寝息を吐いている。春暁の部屋には、カーテンを通して緑色の光が射しこみ、少しずつ温度が上がっ…

084. 言いかけた言葉

結構な大怪我をした。医者に行って手当てをしてもらったので、もう痛くない。包帯が目立つが、二三日経てばガーゼだけになると医者は言っていた。医者の言うことを私は概ね信じている。彼らは私と同じ元素と細胞でできた人間を私よりずっと真摯に見てきたの…

083. 仲直り

私は人の憎悪を見るのが嫌いだ。人や何物かを憎んで歪んでいる人の顔や、吐き出される罵詈雑言に耐えられない。ただ、悲しそうにしている人の顔は嫌いではない。何かを悲しんでいる人は優しい人だということを本能的に知っているからだ。今、私の目の前にい…

082. 暗闇

「私、おまじないができるの」 と、切り出した友人を私は何を言っているのかと問い質した。 「本当よ、おまじないができるの。このおまじないをすれば、嫌なことを消せるの。二度と思い出さなくなるのよ」 「どうやるの」 私も身を乗り出した。 「不意に、昔…

081. 足下

私はもう30分以上、ここでじっと彼を待っている。せっかちな私は人を10分以上待ったことがない。10分までは何とか待てるが、10分を過ぎると忽ち我慢の限界が来て、お茶を飲みに行ってしまったり、腹を立てて家に戻ったりする。でも、今日ばかりは10分を過ぎ…

080. 雑草

友達はいても仲間はいない。そういう環境が随分続いている。しかし仲間意識というものは忘れていない。仲間意識の強い人間から敵視され攻撃されることが多かったからだ。ふらふら一人でいることが多かった私は、常時多人数でいることを好む仲間意識の強い人…

079. 反旗を翻す

誰から見ても悪い行い、かっぱらいや火付けを行っているときも、誰から見ても善い行い、施しやお祈りをしているときでも、人間の本来的な善悪を決めるのは、その人間が本当にただ一人であるかということだ。施しやお祈りを他人への侮蔑から行っている人間が…

078. イメージダウン

鉢の幸福の木が2株腐っていた。どんなに肥料をやってもこの株だけ芽が出ないのでおかしいと思っていたが、今日株の上をつかんで、ぐっと引っ張ってみると根もなくするりと抜けた。土に埋まっていた部分だけ樹皮が腐って、細い幹は炭のように黒く変色している…

077. ストレス

弁当屋で買ってきたおにぎりを食べてしまうとビールを飲んで、そのままずっと本を読んでいた。今日は水曜日の夜だ。仕事が立て込んでいて残業しなければならず、六時半の医者の予約を断った。受付の人は慣れている。電話越しに僕を優しくたしなめた。 好きで…

076. 再生

ねえ、シャーリーン。聞いてほしいことがあるの。もう聞き飽きたなんて言わないで私の愚痴に付き合ってちょうだい。ね、シャーリーン。私、今日とてもつらいことがあったのよ。電車に乗っていたら突然気分が悪くなって吊革を持っている手が痙攣し始めたの。…

075. 迷い

私はつらいことをつらいと思わないようにしようと、じっと努力していた。でも、それはできなかった。挫折を認めることができず、自分のことをなりそこねの聖人のように扱い、徒労とわかっている苦労を自らに科した。馬鹿々々しい。神に誓ってここで述べるの…

074. 雨は降っているか?

多少の雨に僕は傘は差さない。傘を広げるのを面倒がるほど無精ではないけど、何だか癪じゃないか。雨ごときに怯えているようでさ。そりゃ、僕だって雨に濡れて風邪を引いたり肺炎になったりするのは嫌だよ。でも、これぐらいの雨なら風邪なんて引きっこない…

073. 最後

ひどい風邪を引いて医者に処方された滅法強い薬を飲んで私はベッドの上で呻吟している。夥しい汗が額に浮かび頬に流れていくが拭う気力もない。私は汗に混じって自分の涙が流れていくのを感じる。感じるだけで涙をとどめようとすることもない。だって、熱が…

072. 崩壊

眠る前に安定剤を飲む。安定剤を飲んでから5分も経たないうちに眠ってしまうので、安定剤としての意味はほとんどない。ただ、この薬を飲んで寝ると必ず夢を見るのだ。うっかり飲むのを忘れたり、飲み合わせで薬が飲めなかったりするときには夢を見ない。夢を…

071. 積み上げる

輪切りの犬を見た。その犬は輪切りだったが、そんなにグロテスクなものではない。ただ、足の付け根、腹、首から下、頭と四つに体を輪切りにされているだけだ。断面は薄いピンク色で、指の腹で押すとピーチパイのように柔らかである。その犬は転んだり、無理…

070. コーヒー

働く中でいつも忘れないようにしていることが、ひとつある。同僚のマグカップを洗うことだ。オフィスにはレンタルのコーヒーサーバーと薄いプラスチックの使い捨てのカップが置いてある。社員なら誰でも好きなだけ飲んでいい。だが、この薄いプラスチックの…

069. 幸せ(2)

恋人が「捨てていい」と投げたTシャツを私は拾い上げて大事に寝巻にしている。洗うときは裏返しにして洗濯ネットに入れて洗濯機に入れている。柔軟剤は入れるけど漂白剤は入れない。恋人は「貧乏っちい」と嫌がるけれど、私はこのTシャツが気に入っている。…

069. 幸せ(1)

夜半に目が覚めて、私は寝返りを打とうとして、自分の足に当たる彼の体に気づいた。彼はシングルベッドの壁側の半分の領域で、体をちぢこめて静かに寝入っている。顔を覗き込むと、その寝息が顔にかかった。狭いベッド。豆電球だけの電灯、燃え尽きたアロマ…

068. 天使と悪魔

ニームだ。俺の名前はニームだ。覚えたか?覚えたならそこに掛けなよ。あんたも俺の話が聞きたいんだろう。今まで何人も俺の話を聞きたいとこの独房にやってきた。だが、あんたは違うようだね。どうしたんだい?俺は二人の人間を殺した殺人者だ。一人しか殺…

067. 扉

腫れ上がった目蓋を押し上げてトランクの中に荷物を詰め込む。この家で使っていた必要なものはすべて持っていかなくてはならない。私は今日、この家を出て行く。今トランクに詰めているのは今、自分が捨てられない荷物だ。明日の私に必要かどうか、混乱した…

066. グラス

電動扉が雨に塗れてその口を震わせている。もう20分以上の時間が過ぎた。雷がここからちょうど一つ先の信号に落ちたそうだ。車内のアナウンス。電車の中は静まり返り、電動扉の足元にホームの屋根の隙間から注ぎ込む雨で水溜りができている。文庫のヘミング…

065. ネオン

春の始めの雨上がりの宵闇を二人の子供が渡ってゆく。弾む足音、群雲の下、二人の子供が踵を鳴らして走りゆく。 「ねえ見た。今日の看板。すてきだったわねぇ」 「見た見た。緑と赤の電球がとってもすてき。電球は断然赤よね、黄色はどこにでもあるもの」 「…

064. 橋

毎日、私は橋を渡って通勤している。通勤に使っている列車が毎日鉄橋を渡るのだ。行きと帰りの都合二回、私は橋を渡っている。私はいつも、行きは東側寄りに帰りは西側寄りに乗るようにしている。川が西から東にまっすぐに流れ、その上を流れに直角に橋が渡…

063. No. 1

「どんな自分になりたいですか」「憧れていた人は誰ですか」「尊敬する人物はいますか」ここ数年でこういった問いを繰り返し受けてきた。私もいつも答えに窮す。血液型占いもある。几帳面なA型、マイペースなB型、二重人格のAB型。B型の人間とは不思議と馬が…

062. 嘘

監房のうちでは監房に入ったことのない一般の人間が信じられないほど人間的な会話が交わされる。囚人達は思い思いにあだ名を付け合い、それがどれほど自分にそぐわないあだ名でもそのあだ名の示す役割を演じようとする。それは一種のゴッコ遊びだからだ。数…

061. 逃げ回る

海底には人知らぬ三つの国があった。鉱物の資源に恵まれたエアノリクス、海中にありながら真水が湧き出で草木生い茂る農業の国テンビクノレア、一番海面に近いため明るい陽光のもと海中を走るヨットの帆が眩しいオランディア。三つの国は三つの大陸棚の中に…

060. アスファルト

パタパタという機械音が窓の向こうから響いてくる。ヘリコプターだろうか、明るく閃く天井。今日も眠れないまま、私は天井を見上げている。意志の力で眠るのにも、もう厭きた。眠れないのなら、そのまま起きていよう。暗い部屋、白い天井、傾いたポスターフ…

059. あの日

私には体が三つある。心の体と、頭の体と、体の体。心と頭と体がそれぞれの身体を持ち、協力しあったり、反目しあったりしながらもそれなりに折り合いをつけて共存しているのが私の心臓のあたりだろうか。心と体は古参だが、頭は新顔なのでどうしても心と体…

058. 散歩

シャーリーンという私の名前が何にちなんだものなのか、今となっては聞く相手もいないので知る由もないが、少なくとも私の両親は娘が不眠症になることを願ってこの名前をつけたのではないと信じたい。この界隈で「シャーリーン」と言えば「不眠症の女」を指…

057. 白と黒

コンロの前で鍋の中の煮物の煮える様子をじっと見詰めている。醤油と味醂の匂いと暖かな湯気で、自分の髪の先がじわじわ熱くなってくる。換気扇の音の向こうに外の木枯らしの音が聴こえてくる。明日は雪になるそうだ。雪が降れば暖かくなる。雪が降れば何か…

056. 待ち伏せ

窓の外の低く赤い月を見て、ふと朝から干したままの洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、街灯の下に一人の男が立っているのが目に入る。自動販売機の前を行ったり来たり、その中の缶コーヒーやジュースの品名はもう覚えてしまっているに違いない。目の前…

055. 自転車

幼い頃、私はイチジクの実を見つけるのがうまかった。互い互いに枝から生えたたくさんの葉のうちから私はいつも実の在り処を誰かに教えてきた。背丈があの頃の倍ほどにもなった今でも、私は自分の背丈の三倍以上もある巨木の根本から、樹上遥かな梢の実を指…

054. 堤防

ざんざん降る雨の音を聞いていると、去年の秋に時間が揺り戻ったように感じる。今日は2月11日。冬も終わり。雪が降らずに雨が降っている。雨の降る様子に心を動かされるのに、雪の降らないことに異を唱えるのに、私の心は自分の感情にまったく静かになってし…